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「クルイサキ」#21

千絵 1 

 本多千絵は、一人残されたファミリーレストランで、十年前の記憶を思い返していた。亮太の記憶がなくなったと知り、千絵は大きな決断を迫られていたあのころのことだ。
 いまでもその記憶は鮮明に残っている。千絵の心に深く刻み込まれていて、これからもきっと消えることはないだろう。千絵はあのときの時間を十年経ったいまでも、すぐに思い出すことができる。
 亮太が目を覚ます前、千絵は病室のベッドで眠る亮太を見守りながら、自分に与えられた責任の重さに胸が押し潰されるような苦しさを感じていた。命を捨てようとまでした亮太に、自分が再び生きる力を与えなければならない。その責務から逃げ出したいという気持ちが膨らんでいた。ベッドで眠る亮太のまだ幼い顔を見ると、千絵の心をより不安にさせ、臆病な気持ちが支配し、なかなか勇気を見出せないでいた。
 亮太が目を覚ましたとき、千絵になにができるのであろうか。言葉も、表情も、態度も、どの答えも千絵には見つからず、亮太が覚醒したときを想像すると、焦りで息苦しくもなった。
 だから亮太が目を覚まし記憶喪失と聞かされたとき、千絵はショックと同時に、少なからず安堵も感じていた。直前に迫っていた問題がとりあえず先延ばしになった。そしてある考えが頭に浮かんだ。それは千絵にとって都合がよく、亮太を不幸にしない偽りの筋書きだった。いつの間にか、亮太が目を覚ましたときに伝えるべき覚悟はいとも簡単に消え去っていて、千絵に芽生えた新しい考えがそのときは最良な選択だと思えた。
 医者からの説明で時間が経てばそのうち記憶はよみがえるだろうと聞いた。千絵は頭に浮かんだ考えを直ちに胸に仕舞い込み、それから自分はなんてことを考えてしまったのだろうと自身を戒めた。
 それでもどれだけ時間が経っても亮太の記憶は回復しなかった。千絵は亮太に記憶を失う以前のことはなにも知らせなかった。亮太から訊かれても、いまはまだ頭が混乱しているからと、適当な理由をつけ、話を遮り、亮太の看病をつづけた。それはあのときに抱いた考えをまだ心に秘めていたからであった。
 時間が経過するにつれ、千絵はその考えを現実的に想像するようになった。実際、その準備もしていた。マンションを引き払い、遠くの場所でアパートを探し、仕事も見つけた。いつでも記憶を失ってしまった亮太と生活できる環境を整えていた。
 亮太の母親は自分だ。母親として亮太を守る責任がある。だから道徳的に反することでもやる覚悟はすでにできていた。
 数週間ほど過ぎても亮太の記憶は戻らなかった。それでも体調は問題ないということで、亮太は退院をした。それまでしてきた準備を無駄にしてはいけない。千絵はすぐに亮太を連れて引っ越ししを行い、逃げるように街を出た。
 引っ越し先のアパートで二人の生活は始まった。
 最初は普通の会話でさえもぎこちなく感じ、これから先の生活を何度も不安に思った。それでも千絵は亮太といるときは全身全霊で彼に向かった。亮太に新しい記憶を与え、過去を塗り潰してしまおうとするように。そうして二人での時間を重ねていくと、徐々に亮太は千絵に心を開いてくれるようになった。何気ない会話にさえ千絵は幸せを感じるようにもなった。
 いつ亮太の記憶がよみがえるかわからない生活のなかで、千絵は頑なに亮太に過去を隠しつづけた。
 亮太は過去を知りたいようだったが、千絵は口を閉ざし、ときには理不尽に怒り、なんとか誤魔化しているうちに、亮太も過去について千絵に尋ねることはしなくなった。
 いまになってもその判断は間違っていなかったと思う。亮太に不憫な思いをさせないためにも、正しい選択であったと信じている。
 これまでの十年のあいだ、亮太と二人で生きてこられた。ときには言い争うこともあったが、それは親子の証みたいに思え、妙に嬉しかったりもした。
 過去がなくても生きていける。十年間の暮らしで千絵は亮太と築き上げた信頼を誇りに感じていた。
 そして千絵の『約束の日』を迎えた。

『もしかして、世界は嘘であふれているかもしれない。だけど僕は世界を信じていたい。いつだってみんなが心の奥から笑えるように、この世界を変えてみせるんだ』
 さくらの小説にあった言葉だ。彼女の小説は文章が若く、自意識が強くて、希望ばかりで現実感に乏しく、世間知らずだった。
 だけど、千絵の心にまだわずかに残っていた道義心を刺激したのは確かだった。
 さくらの小説を読んだのは亮太の記憶が戻らず、千絵が亮太に本当のことを言えずに思い悩んでいたときだった。病室にずっと置かれていたその小説を、ふと思い出し手に取った。
 正直に生きる主人公が世間から騙されつづけるのだけれど、まったく心を痛めず誰も恨まず、さらには周囲の悪人をも改心させていくという、ありきたりのストーリーだった。
 そして物語がクライマックスを迎えた。小説に登場したキャラクターはみんな幸せになり、ハッピーエンドで物語が完了したあと、最後のページの裏側にそれはあった。
『20××年三月十日。戸板橋から七本目の桜の木の前。田畑さくらと待ち合わせ』
『絶対に来る』
 これまでのパソコンの文字とは違い手書きで書かれていた。この作者と亮太の再会の約束だと千絵は思った。 
 亮太にこの小説の存在を知らせるべきなのか千絵は逡巡した。
もしもこの小説の存在を亮太に知らせれば、この約束の日に亮太は会いにいくかもしれない。このまま亮太の記憶がよみがえらなくても、二人が出会うことで亮太の記憶が回復してしまうかもしれない。それに小説を渡すぐらいの深い間柄だったと思えば、当時の亮太の過去をこの小説の作者である田畑さくらは知っていて、二人の過去を亮太と分かち合うであろう。
 そのことが亮太に知らせたくない過去に触れるのかもしれない。あのことが亮太に知られれば、亮太が壊れてしまうかもしれない。
 これから亮太の記憶が回復する可能性だって残されてはいるが、もしも十年経って記憶が眠ったままでいても、十年後さくらと再会し、過去を知らされたら、それまで過去を隠していた千絵に、亮太はどんな感情を抱くだろうか。
 このまま小説の存在を亮太に教えずにいた方が、千絵にとって都合がいい。わざわざ亮太の記憶を刺激させる可能性を増やすことはない。小説の存在を亮太に教えず、約束もなかったことにすればいい。
 だけど、自分にそんな資格なんてあるのだろうか。
 千絵は胸が痛んだ。自分がいま亮太に見せている姿はこの小説の主人公とは正反対で、亮太に真実を告げず卑怯な行動だ。 
 そして、自分はいまでも亮太が記憶を回復しないことを願っている。そして言い訳する。小説のような世界なんて存在しない。みんな自分勝手な生き物なのだ。世界は偽りで溢れている。
 川が汚れているのに悲しくなっても、声を上げない。
 海にゴミが溢れているのに心を痛めても、目の前のゴミですら拾わない。
 人を罵る人を見て義憤が込み上げてきても、聞こえない振りをする。
 自分ひとりだけではなにもできない。なにも変わらない。だから、なにもしない。
 この世界で生きていくためには諦めも必要なのだ。そうして千絵はこれまで生きてきた。
 だけどもしかしたら、案外、希望は近くにあって、ただそれに手を伸ばしていないだけなのかもしれない。世界はこんなものだと自分の世界のなかで決めつけてしまい、世界を実際にこんなものにしてしまっている。信じることを忘れ、自分を守るために諦め、正義を都合よく偽ってきた。
 たださくらの小説は人を信じることで世界に希望を与えている。
 千絵が思う現実の世界とさくらが紡いだ小説の世界、はたしてどちらが正しいのだろうか。
 亮太にこの小説の存在を教えなければいけないと思った。それは母親として亮太を守る責務と同様に、記憶を失う以前の亮太の存在を守る責任が、千絵にあると思ったからだ。それで亮太が約束の日に行くのであれば、その後を追い、亮太とさくらの関係を調べるのだ。亮太の記憶が失う前に、二人は特別な関係でいたのであれば、千絵にとっても看過できない。さくらの存在そのものが千絵にとって非常に危険なのだ。さくらのことも千絵は把握しなくてはならないと思った。
 それなのに実際のところさくらは亮太のことを知らないと答えていた。あのときの態度から彼女は嘘をついているようには思えなかった。
 そう思えばいま亮太に必要なのは彼女なのかもしれない。
 千絵の告白を受け止めきれなかった亮太、あんな表情を見せ、憤りを表す亮太をはじめて目にした。それから亮太は千絵から姿を消した。 
 いまは亮太の側にその彼女がいることに少々の嫉妬心も覚えるけれど、千絵にはこれ以上何もできない。悔しいけれどいま亮太の近くに居られるのは彼女しかいない。


#22へつづく

「クルイサキ」#22

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
クルイサキ」#16 二章 休眠打破


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