見出し画像

「クルイサキ」#2

一章 花嵐


さくら 1

 作家になる。
 さくらがそう心に決めたのは高校三年生のときだった。涼風が吹きつけ、夏服では肌寒く感じはじめたころだった。
 正直、時間に急かされていい加減に下した決断であったのかもしれない。夏の終わりの名残惜しさを押しやる感覚にも似ていて、将来を決めるには安易な憶断だったと、いまになって思う。
 それでもただひとつ言えることは、その決断に彼が多少なりとも関わっていたことで、さくらは到底夢としか思えない未来を、その期間ずっと本気で信じることができた。伝えたときの彼の態度が普段と変わらず淡白であったから、案外、大それた望みではなかったと単純に思うことができたんだ。

 例えば、世界中に彼女の声を届けることができたと想像する。晴れた空を仰いで、さくらは願いを唱える。全世界にさくらの声が降り注ぎ、全人類が何事かと一瞬、沈黙する。
 だが世界中の人々は一貫してそれぞれ個人の活動を尊重し、彼女の拙い言葉に耳を傾けることはなく、まるでなにも聞かなかったかのように、喧騒はよみがえる。いまのさくらでは言葉の力が著しく足りない。さくらが伝える言葉は、魅力的でなく、きっと声が届いても世界はそれを黙殺して、耳を傾けず、各個人の利害を重んじる。さくらの言葉ではなにも伝わらない。機会を与えられてもなにも変えることができない。身勝手な想像でさえもうまくいかない。結局、自分の無力さを痛感する。
 残りわずかとなった高校生活。学業に勤しんで気がつけばとうに十年以上は経っている。それなのに文章力は一向に上達の気配をみせない。作文の課題を与えられれば、ここぞとばかりに全勢力を原稿用紙に注いできた。そのたびに桜の花びらのような優雅な花まるを期待するのだが、返される作文は、紅生姜が降り掛かったのではないか、と疑ってしまうほどに赤ペンで訂正させられていて、花見に出掛けたのに桜は散っていた、というくらいにさくらは肩を落とす。
 注意力が足りないことは自覚しているし、世間知らずだと言われても強く否定できない。誤字脱字が多いとか、語彙に乏しいとか、物語が成り立っていない、君は作家に向いていないと断言されれば、反論できるほど頑強でもない。
 それでも「人を感動させたい」のだ。
 星が散りばめられたような輝く文章で、宇宙空間ほどの壮大な物語を創造して、世界中の人々の笑顔が見たい。心が温かくなって、自然と思いやる言葉を言い合って、みんなが優しい気持ちになる。そんな世界を描きたい。さくらは鉄心石腸の決意がある。
 以上が建て前。
『作家になる』と大々的に宣言したのは「がんばって」と気になる彼に応援してほしかったのだ。モテタイからサッカー部に入る中学男子と同じで、安直で不純な動機と言われても強く否定はできない。
「私、作家になるの」さくらは言う。
「本当かい?君にそんな夢があるとは知らなかった。がんばって。応援するよ」それから彼はさくらを抱き締める。耳元でそっとささやく。「愛してる」二人は結ばれる。めでたし、めでたし。
 以上、妄想。
真実はというと、
「私、作家になるの」さくらは言った。
 彼は答えた。「いいね」
 会話は終了した。
 あっけなかった。
 彼の態度は子供に「ウルトラマンになる」と言われたときの反応のようで、そっけなかった。ちょっとは驚け。
 彼の名前は織田雄平。三年生に進級してはじめて同じクラスになった。
 織田を意識しはじめたのは、二学期が始まってまだ二週間ほどしか経っていない、まだ暑さが残る季節だった。彼を引き合わせたのは、亡くなった父だった。
 
 下校の途中、さくらは定期入れを忘れていたことに気づいた。駅の改札の手前だった。
 さくらは普段自転車と電車を乗り継いで通学している。自宅から電車で市内の中心の駅まで行き、駅に停めてある自転車に乗って登校する。
 忘れ物に気づいたさくらは慌てて駅の自転車置き場に戻り、学校まで自転車を走らせた。定期入れには父の写真が入れてあって、忘れたことに気づいたときは、定期のことよりも、父を置き去りにしてしまった罪悪感が胸を支配していた。
 部活動をしていないさくらは、こんな時間に学校にいることは滅多にない。少し気後れしていることを自覚しながら、学校に入った。
 教室は西日で赤く染められていた。陽の傾き具合がひっそりとした教室のなかを覗き込んでいるようで、怪しげな秘密の雰囲気を漂わせていた。禁断の場所に足を踏み入れてしまったのではないかと錯覚するほどに、普段いる教室とはまったく違う空気が流れていた。
 教室には外と対峙している格好でさくらに背を向けている男子生徒がいた。後ろ姿を見る限りではさくらに気づいた様子はなく、黙々となにか作業をしているようだった。さくらは自分の席に行き、机の引き出しから定期入れを見つけた。
 さくらは一人で教室に残っている男子生徒に興味を持ち、声を掛けようと、彼に歩み寄った。無造作に伸びた襟足と遠慮深そうななで肩を見て、そこではじめてクラスメイトの織田だということに気づいた。名前は覚えていたが、彼とそれまで会話らしい会話を交わしたことがない。織田はクラスで目立った存在ではなく、特に気に留めたことはなかった。
 さくらは背伸びをして彼の肩口から作業を覗いた。イーゼルに立て掛けたキャンバスに筆を走らせているのが見えた。
「なにを描いているの?」
 織田はなにも答えない。織田の動かす筆とキャンパスと擦り合う音が、放課後の教室の静寂さをより一層際出たせていた。
「ねえ」つい、咎める口調になった。
 それでも、織田はさくらには気づかない様子で、手を動かしつづけた。
さくらは無視をする織田に少し腹を立てながら、教室を出ようとした。そのとき背後から声がした。
「空は毎日変化するんだ」
 振り返ると、織田が絵をさくらに向けていた。教室から臨める夕焼けに染まった空の絵だった。鮮紅がキャンパスを浸潤し、目を瞬かせるほどに眩しい。
 さくらは一瞬でなんともいえない浮遊感を味わった。絵に吸い寄せられ、空へ昇るように、その絵に、その空に、心を掴まれていた。
 準備もなく急に訪れた感動がさくらのその時間を独占し、まるで意識を奪われたかのような呆然が身を襲った。
 彼の「どうかしたのかい?」という一言が魔法を解かせた。地球の引力に改めて気づかされたかのように肉体の存在を思い出した。たったいま過ぎ去った時間がまださくらの体のなかで完全に消化することなく、山から下りてくる雪解け水のように、名残を含んでいる。それが体内を巡り、さくらに心地よい感覚をもたらせていた。
 織田は絵をイーゼルに戻すと、再び振り返り、左目を閉じた。さくらの方へ向かって、筆を立てる。わざとらしく険しい顔つきをして、さくらをじっと見つめる。
「僕は人物を描いたことがないんだ」
「私はあなたが絵を描いていることさえも知らなかったわ」
 彼の雰囲気や呼吸のタイミングに違和感はなく、このときはじめて会話を交わす気が不思議とまったくしなかった。
「そうかい、僕は君がそんなに敬神的だとは知らなかった」
 気がつけばさくらは胸の前で手を合わせていた。定期入れを両手に挟んだままで、まるで祈りを捧げているような格好をしていた。慌ててポケットに定期入れを入れる。ポケットに友達からもらった飴玉が入っていたので、しらじらしく彼に手渡した。
「ありがとう」と応えた彼の声は気取った感じがしない。それがさくらの心臓をより一層激しくさせる。
「そ、その、絵、いいね」音程はバラバラで、照れ隠しはバレバレで、心はハラハラしていた。だけど素直な感想が言えたことに、さくらは少なからずほっとした。
「もし気に入ってくれたのならこの絵を君にあげるよ。飴玉のお礼だ」ガムをくれるかのような気安さだった。だけど、友達からもらった飴玉との見返りにはどう考えてもならない。
「そんな悪いわ」さくらは手を振った「私、芸術には疎いし」
「芸術にはほど遠い。こんな絵に芸術性を求めてはいけない」
「そんなによく描けているのに?そのモクモクとした雲だって……かわいいじゃない、私、その絵好きだよ」なかなか気の利いた言葉が見つからない。
「そう、ますます君にもらってほしくなった」
「本当にもらっていいの?」さくらは躊躇いがちに訊いた。
「もちろん。この絵も喜ぶよ」彼は絵を丸めて専用の筒に収めた。その仕草は手馴れていたけれど、そんなに乱暴に扱っていいのだろうかとさくらは訝った。
「どうぞ」彼は筒をさくらに差し出した。
さくらは彼に向き合った。彼のオレンジ色に染まった優しい笑顔に甘えて、ありがとうと心から言えた。

 その日の帰り道は、通い慣れた通学路とは感じられないほど、飛び込んでくるあらゆる事象に親しみを覚えた。すでに日没が影を連れ去っていき、街の景色は薄明で輪郭がおぼつかない。それでも、さくらを退屈にはさせなかった。流れる景色を自転車の速度で通り過ぎるのが惜しい気がして、途中で自転車から降りて駅まで歩くことにした。
 空を見上げると、逞しく育った木の枝が視界に入ってきた。身に纏う葉っぱは、ゆらゆらとなびき、ざわめいていた。
 駅まで自転車を押して歩いたあと、電車に乗ると外の景色が気になって、車両の明かりが反射しないように、窓に顔をくっつけた。動く街並みはまるで生きているかのように、さくらになにか伝えようとしている。正体が掴めない感情が芽生え、それは流れていく景色が持ち去っていく。それが繰り返されて、さくらは胸がいっぱいになる。
 電車を降りて、駅から家までの道のりもその感覚はつづいていた。
何気ない風景が新鮮に心に届いてくる。とても良い映画を見たあとに近い感覚だった。さくらは訪れた感応を独占するのには忍びなく、誰かと分かち合いたいと思った。
 定期入れをポケットから出して、父の写真を見た。それから父と一緒に散歩をするつもりで、写真を外側に向けて、ゆっくりと歩いた。
 どうすれば気持ちはうまく伝えられるのだろう?
 さくらは足を止めた。定期入れを持ったまま、鞄のチャックの間から顔を出している筒を取り出し、織田からもらった空の絵を広げた。
 織田は感じた気持ちを筆で表現している。彼はただの模写だと言うが、この絵はさくらを空にまで届けてくれるように現実を忘れさせてくれた。その空は境界線を設けず、果てなく自由を蓄えていて、彼女を泳がせた。広大な空間に遮るものは、なにひとつない。
 さくらは織田の絵をすばらしいと素直に思えた。恥じらいがなければその場で手を叩き、織田を褒め称え、両手で硬い握手を求めていたことであろう。
 同時に彼を羨ましくも思った。織田は心に訪れた感動を表現する術があり、それに熱中している。
 作家になりたい。
 長いあいだ降りつづいた雨が上がって、久しぶりに射す太陽の暖かさに触れたような感懐が訪れた。心のなかにまで光が射し込んできて、素直に心と向かい合うことができる。ずっと心のどこかで隠れていた気持ちは、かくれんぼで見つけられた子供のように、初々しく、純粋だった「見つかっちゃった」と、舌を出して照れてみせる。
 彼が描いた空の下では誰もが正直になれるのかもしれない。いや、空は元々そういうものだったのに、さくらは現実に目を奪われていて、純粋に空を見上げることを忘れていたのだ。
 本当はいつも空は、平等に可能性を無限大に拡げていた。織田はそれを知っていて、それをも表現していたのだ。
 さくらは空を仰いだ。
 薄暗い空は所々に星を散りばめただけで、その存在をさりげなく教えている。
 さくらは目を閉じた。それでも風が空のにおいを届けてくれる。すっと心に入り込んでくるにおいは、やすらぎと落ち着きをもたらした。とてつもない大きな世界に包まれて守られていることにさくらは感謝した。この幸福が未来永劫つづいていくように、空に願わずにはいられなかった。
 そんなことを考えながら目を閉じて立っていると、突然背中を押された。持っていた物を持ち直しながら数歩進み、体勢を整えてから、振り返った。      
 スーツ姿の男がいた。
 だらしなく両腕を垂らして、顎が外れたかのように口が開いていた。目の焦点が定まっていない。さくらは男のあまりの異様さに、道の真ん中で突っ立っていたことに対して詫びるのを忘れて、その場から身動きできないでいた。
 男の後方では、猫の姿が見えた。鋭い眼光をしていて、両の目の殺気めいた光をさくらは感じた。しばらくのあいだ視線は交わっていたが、急に眼光が緩んだ。それから猫は視線を外し、俊敏な動きで姿を消した。
 再び男に視線を戻すと、男は異常なほどに震えていた。顔に汗が噴出し、荒い呼吸を発していた。
「ちょっと、どうしたんですか?」さくらは男に声を掛けた。返事がないので、男の肩を叩いて、再度男に呼び掛けた。
 男は急に声を上げた。しゃっくりにも聞こえないことはない、短く引きつった悲鳴だった。それを何度か繰り返すうちに、男の眼光は潤いを取り戻していった。頭痛を紛らわせるように、頭を左右に振る。
「大丈夫ですか?」さくらが心配すると、男はやっと目の前のさくらに気づいたように目を見開いた。
「ここはどこだ」男が思いのほか不躾な態度だったので苛立ちを覚えたが、なんとか堪え、ここの町名を教えた。
「なぜこんなところに」男はそう呟き、踵を返して歩いて去っていく。さくらは自分の町を馬鹿にされたのかとさらに苛立った。あなたは未来からタイムマシンに乗ってきたのかと心のなかで毒づいていると、男は振り返ってこちらに走り寄ってきた。そのタイミングの絶妙さに、未来では人の心のなかがわかるのかとさくらは混乱した。
 逃げようとして体を捻ると「すいませーん、近くに駅はありませんか」と間延びした声が、背中から聞こえた。
 不意をつかれ体のバランスが崩れた。冗談みたいに、定期入れと絵が手から離れた。さくらが織田の絵を拾うあいだに、その場にきた男がさくらの定期入れを拾った。さくらは男に手を差し出し、礼を言おうと男を見た。
 男は定期入れを渡さなかった。それどころか、定期入れを見つめたまま、唇がわなわなと震え出し、男の顔色がみるみると青ざめていった。それから幽霊を見るかような視線をさくらに向けた。
「き、きみの、名前」男はたどたどしく訊いた。新手のナンパだろうかと思った。
「田畑ですけど」さくらは答えた。怯えながら名乗るのは、おそらく生涯初めてのことだったであろう。
 男の顔がさくらの目の前から突然に消えた。男は両膝を地面についていた。動揺を隠そうともせず、深く頭を下げた。激しい嗚咽が漏れていた。
どうしていいのかわからずおろおろとするさくらの気も留めず、男は地面に頭を擦りつづける。
「こんなところで止めてください」さくらが言っても、男は頭を上げようとはしなかった。
 いてもたまらずさくらは男から定期入れを奪い取って、逃げるようにその場を離れた。足元が泥沼のようで、体が重かった。背中からまだ聞こえてくる男の泣き叫ぶ声は、もはや声にはなっておらず聞き取れない。それは肉食動物の咆哮のようで、さくらを怯えさせた。
 男の姿は見えなくなっても、男の絶叫は耳から離れなかった。男の謝罪の意味も理解できず、ただ恐怖感だけがさくらの心に残っていた。


#3につづく 

「クルイサキ」#3


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?