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「クルイサキ」#17

さくら 10

 さくらは声がした方へ振り返るのにたっぷりと時間を掛けた。どんな表情をすればいいのかわからなかった。ぼさぼさな髪を少し恥ずかしく思うくらいの乙女心もあった。
 意を決して振り向くと、怪訝な表情を浮かべた見知らぬ男が立っていた。さくらは拍子抜けし、緊張が一気にゆるんだ。有り得ない期待を一瞬でもしてしまった自分を恥じた。
 さくらは見知らぬ男を無視し、背を向けて何事もなかったようにゆっくりと織田の卒業証書を筒に戻した。それからその場から立ち去ろうとしたのだが、さくらの後方で男の気配がまだする。それは威圧されていると感じるほどで、なかなかさくらは足を踏み出すことができない。
 そのうちに背後から肩を叩かれた。その力は男の切迫感を訴えるには充分すぎるほどに強かった。
「田畑さくらさんですよね。僕のこと覚えていませんか?」
 振り向くと男は自分に指をさして、さくらの顔色を窺っている。さくらの名前を知っているということは知り合いなのだろうか?さくらは男を注視し、記憶を巡らせた。
 痩身な体型で、目は細いが強い印象を受けるほどに鋭い。色白な肌が首筋から窺える。スポーツブランドの紺色のパーカーを身に纏い、まだ垢抜けない幼い印象をさくらは抱いた。それでもさくらの記憶は、なかなか目の前にいる男を見つけ出さない。だけど男の無言の重圧に思わず「あああ」と、声が漏れてしまった。
 そのままさくらは口を「あ」で止めたまま考える。まるでパソコンがフル回転で検索し、画像が止まってしまったかのように。どれだけ大急ぎで記憶を巡らせても、なかなかヒットしない。
「全然覚えていない?もしかして忘れてしまったの?」男は不安な表情で訊いてくる。答えを急かされて、さらに焦る。
 男はさくらから視線を離そうとしない。その視線に根負けし、ついに「あああ」と、思い出した演技をしてしまった。
「思い出してくれた」男はさくらの反応に満足してか、感嘆の声をあげた。
それに対してさくらの記憶はもう検索することを諦めたように、作動をしなくなった。どんどんと追い詰められて、背中に汗をかいてしまう始末だ。
まずは自分から名乗れよと思いながら、さくらは「はい」と口走っていた。 なぜ人は自分の間違いをすぐに訂正できないのだろうか。
「元気でしたか?」こうなれば知っている振りをするしかない。「久しぶりですね」と、白々しい演技だと思いながら、会話をつづけることにした。こうなればぎこちなさを前面に押し出して、相手に察してもらうしかない。他人が間違っていても、それを指摘せず、本人自ら気づいてもらう。なんてすばらしい作戦なのだと、さくらは心のなかで自分を讃えた。
 それなのに、男はまるで不審者を問い詰めるかのように人差し指をさくらに向け「君は誰なの?」と、訊いてくるものだから、さくらは口を開けたまま立ちすくむしかなかった。
「僕のことを知っているでしょ。僕とどんな関係だったのか僕に教えてよ」
 人は理解できる容量を超えると、しばらく時間が止まったようになる。人も機械も自を放棄したくなるのだろうか。さくらはしばらく呆然と時が過ぎていくのを感じた。
 もちろんそのまま放っておけるわけはなく、降参の白旗を心のなかで大いに振った。「すいません。人間違いでした」さくらは殊勝に頭を下げる。考えてみるとどういうわけか自分から人間違いをした格好になっているので、居心地がすごく悪い。それなのに相手は容赦なかった。
「そんなはずはない。今日ここで約束をしていたんだ。僕は忘れてしまったけれど、その約束は知っていて、だからここに来たんだけど、やっぱり忘れているから」
 男は弁解するように口調が早くなった。もう支離滅裂な男の言動に首を傾げるしかない。ただ、男は呼吸を荒げて、本当に困っているかのように、潤ませた目を寄越してくる。だから無下にもできない。
「誰かと約束していたんですか?人間違いじゃないですか?」男を落ち着けさせようと、さくらはゆっくりと諭すように言った。
 自分の言っていたことが理解不能であったことにようやく気づいたのか、男は視線をうろつかせ、考える素振りをした。そのとき最初に声を掛けられたときから注がれていた男の視線はようやくさくらから外され、そのまま首を大きく振って「それがわからないんだ」と呟いた。
「僕は十年前に、それまでの記憶を全部失ってしまったのだから」
 男は大切なものをなくしてしまったかのような絶望的な表情をした。そして、さくらに悲痛を訴えるように、台詞じみて言う。
「ただ、君は今日僕と約束していたはずなんだ。この場所で出会うことになっていたんだ」

 さくらと男は遊歩道沿いにあるグラウンドに入って、ベンチに座った。二人の間には男が持っていたドラムバックが置かれ、適当な距離感を作り出していた。
 男は本多亮太と名乗った。先ほど違う人の名前を呼んだのになんで返事をしたのかと訊くと「条件反射っていうのかな」と、特に悪びれた様子もなく堂々と言った。
 グランドで子供たちがボールを追い掛けているのをしばらくのあいだ二人で眺めていた。春の陽だまりがそうさせるのか、時間がゆっくりと流れているように感じる。亮太はのんびりとした雰囲気を壊したくないのか、なにも話さない。だからさくらから切り出した。
「記憶がないんだって」努めて優しい口調でさくらは訊いた。亮太は深く息を吐いてから口を開いた。
「そうなんだ。僕には十年前以前の記憶がまったくない」亮太の声が震えていた。それから自分の声がうまく出なかったことに気づいたのか、喉を調節するように空咳をした。
「記憶をなくしたのは十年前、僕は小学校六年生だった。事故に遭って病院に運ばれたらしい」
 亮太は足元に視線を移し、そのまま一点を見つめている。彼の横顔はまだ幼く見えた。それは記憶の欠如となにか関係があるのだろうか。
「目が覚めたとき母がいた。ただ、そのときは母とはわからなかった。そればかりか自分が誰かさえもわからなかった。なぜここにいるのかも、自分は誰なのかも、わからないことばかりで頭が混乱し、まったくなにも思い出せず、そのうちに恐怖が襲ってきた。自分という存在を認めてもいいのか、そのときの僕には判断できなかった」
 さくらには想像するのも難しかった。目が覚めたとき、記憶がないということはどんな感覚がするのだろうか。前日、飲みすぎて夜の記憶がないという経験はあるが、絶対にそんな呑気な感覚ではないだろう。
 個人差はあるだろうが人間の一番古い記憶というのは、だいたい三歳から四歳ぐらいであろうか。さくらの一番古い記憶は父との思い出だ。父はさくらにキスを無理やりねだってきた。嫌がったのだろう、さくらは顔を背けたが、父は無理にキスをしてきた。さくらは喜ぶ父の背中に蹴りを入れる。その記憶は曖昧で本当のところはわからないが、そういうことはあったとさくらの記憶は教えてくれる。
 もしも、記憶をすべて失ったら。自分が誰かさえもわからなくなったら。
 やはり、怖い。どうしようもなく、頼れるものもなく、恐怖にうちひしがれるであろう。
「さくらさんはどう?小学校の思い出とか、あのころはあんなことがあったなって懐かしむことはない?」さくらが深刻な表情になっていたからか、亮太が優しい口調になった。
「小学生のころならたくさん思い出があるよ。それ以前の幼稚園のこととかも、はっきりとは思い出せないけれど、断片的にある」
「楽しい思い出?」
「小学生のときはほとんど楽しかった。あのころはなにも悩みなんてなかった。でも、小学生のときに父を亡くしたから、そのときは悲しかった」
「いまもまだ悲しい?」
「もう何年も前だから。いまは完全に受け入れて、それは当たり前になっている」
「そう」と、亮太は呟いてから、しばらく沈黙した。それはよみがえらない記憶を無理して巡らせるようであったから、さくらは彼の不自由さを感じて、胸が締めつけられた。
「記憶がないと、やっぱり苦しい?」思わずさくらは訊いていた。亮太の沈痛な表情を案じ、自然と口に出ていた。
「苦しくは、ない。うん、苦しくはない」亮太は確認するように何度かうなずいた。
「だけど、不安がずっとある。長い期間の記憶がないっていうことが、ずっとコンプレックスになっていて、自分に自信が持てないんだ」
 記憶というのは、思い出だけではなく、人が成長してきた証でもあるということをさくらは思う。これまでの長い時間に積み重ねてきた道のりが、自尊心などを形成するのだろう。
「これまで誰かに訊いたことはなかったの?どんな小学生だったとか、思い出とか話してもらったりすると、記憶ではよみがえらなくても、自分自身を知ることはできるんじゃない」同情したわけではないが、さくらは彼に自信を与えたかった。彼自身が気づいていない、彼らしさを、彼の言葉から模索しようとした。だけど、亮太の表情はさらに曇っていった。
「母にはそれまでのことを何度か尋ねたことがある。だけどそのたびに母は悲しい表情になる。昔のことはいいじゃないと、母はまったく話そうとしなかった。それである日僕もしつこいくらい何度も訊いた。そうしたら母は怒り出して、僕に手を上げた。手を上げたっていっても、頭をはたかれた程度だったけれど。すると母は急に顔が青ざめていって、何度も僕に謝ってきた。僕は大変なことを訊いてしまったのだと思った。それからは母に過去について尋ねることはできなくなった」
 親が自分の子供のことを話したがらないのはちょっと考えにくい。なにか亮太の母には、亮太に思い出してほしくないことでもあるのだろうか。
「お母さん以外に家族はいないの?」
「父は僕が生まれてすぐに行方がわからなくなってしまったらしい。それ以外にもおばあちゃんが、母のお母さんがいたけれど、五年くらい前に亡くなった。それからは母しか家族はいない」
「他の人とか、例えば当時のクラスメイトには尋ねたりはしなかったの?」
「僕が入院しているとき、近しい人は誰もお見舞いには来てくれなかった。事故に遭ったとき、小学校の卒業式だったらしいんだ。それから中学校に入学したのだけれど、僕を知っている人は誰もいなかった。なぜかというと、事故に遭ってから家が引っ越したんだ。母は事故の前からそれは決まっていたんだと言っていたけれど」
「そうなの」さくらはその話から作為的なものを感じ取った。亮太の母親が亮太の過去を隠そうとしている。しかし、この場でそのことを彼に聞くことはできなかった。憶測だけで彼の大切な母を彼自身に怪しめさせることはしたくない。いや、もしかして本人もすでに察しているかもしれない。だけど、たった一人、血の繋がった家族を信用せずにはいられないのであろう。だから、こんなにも思い悩んでいるのだ。
「これを見てほしい」と、亮太はそう言ってドラムバックを開けた。取り出したのは小学校の卒業アルバムだった。緑色の表紙で思い出と赤い文字で書いてあった。クラスの集合写真が一緒に乗っている。
「僕を探してみて。二組にいるから」
 言われた通りにさくらは卒業アルバムを開いた。一人一人の顔写真がある。みんな笑っている。だけど一人だけ黒いマジックで落書きされている生徒がいた。未成年の犯罪者などの写真を載せるときに加工されるように、その生徒の目が黒いマジックで一直線に塗られていた。
「それが僕だよ」その生徒の名前もマジックで消されていて、例えその写真の生徒を見知っていたとしても、判別することはできないくらいに、落書きがされていた。
 さくらは他のページも開いた。するとところどころ黒いマジックで落書きがされていた。
「僕は小学校のとき、いじめにあっていたんだ」亮太は涙を堪えているのか、目を細め、悲しそうに呟いた。
 さくらはすぐに言葉を掛けることができなかった。沈黙のまま卒業アルバムを閉じた。
 自分の息子がいじめられていたから、おそらく亮太の母親は彼に過去を話そうとしなかったのだ。
 亮太の母はこの卒業アルバムを見て、いじめの存在を知ったのだろうか。この悪意に満ちた卒業アルバムを見ていたとしたら、彼女はどんな心境に陥ったのだろう。
 さくらは暗澹なる気持ちになった。亮太の母が抱えた荷物の重さを憂い、心が沈んだ。 さくらは亮太に卒業アルバムを返そうとした。もう見たくなかった。ただ、手渡そうとしたとき、あることにさくらは気づいた。そのアルバムの裏表紙には校舎が写っていて、さくらにはその校舎に見覚えがあった。思わずアルバムを手元に引き戻して、顔を近づけて凝視した。その校舎の写真の下に緑が辻小学校と書いてあった。それはさくらが通った小学校だった。
「この小学校、私が卒業した学校だ」思いのほか大きな声が出た。そして亮太に卒業アルバムを差し出し「ということは、あなたはこの近くに住んでいたということだね。どう?この景色、なにも思い出さない?」と、訊いた。
亮太は首を振って否定した。
「まったく思い出せない。ただこの場所の近くに僕が住んでいたということは、その卒業アルバムから察していた」と言いながら、彼はアルバムを受け取りドラムバックに閉まった。
「どう、こうなったら学校に行ってみる?なにか思い出すかもしれないし、もしもその時代の先生がいれば話を訊いてみるのもいいかもしれない」自分の小学校だと知り、さくらは急に親近感が湧いた。
亮太は顔をしかめた。さくらはしまったと思った。その学校で亮太はいじめられていたのだ。思えば無神経なことを言ってしまったと、さくらは反省した。
「ごめん。別に無理して思い出さなくてもいいよね。十年前の記憶がなくてもこれからの人生生きていけるよ」わざと軽い口調でさくらは言った。
「でも、小学校の記憶がないことがなんかずっと心に引っかかっているんだ」
 亮太は胸に違和感があるかのように胸を擦った。
「記憶、取り戻したいの?」さくらは訊いた。
 亮太はうなずいた。
「つらいことかもしれない。受け入れたくない過去が待っているかもしれない」
「だけど過去を知りたいんだ」と、力強く亮太は言った。さくらは彼の決意を感じ取った。
 すでに亮太には覚悟ができていたのだろう。例えつらい過去がそこに待っているとしても、彼には受け入れられる用意はすでにしてある。だから、あんな状態の卒業アルバムを持ってここまで来ている。
 これまで十年間の記憶しかないとしても、彼はちゃんと成長していて、強くもなったのだろう。十年間精一杯生きてきたから、忘れてしまった記憶を、なんとしても取り戻したいと思えるのだ。
「僕は記憶を取り戻したいと思っている。だから今日この日にこの場所に来た。この場所に来れば、僕のことをよく知っている人が来ると思っていた」
 そういえば亮太は言っていた。今日さくらと約束をしていたのだと。さくらにはそんな記憶はないし、あの約束は織田と二人しか知らないはずだ。
「そういえば、なんで私の名前を知っていたの?私と約束をしていたって言っていたけれど」と、さくらは訊くと、再び亮太はドラムバックを開き、今度は紙束を出した。それをさくらは受け取った。
 一枚目の紙には、さくらにとって思い出深い言葉が書いてあった。パソコンの太字でプリントされている。さくらはそれがなんであるのか、瞬時に理解した。
 全身に寒気がした。これまで、ほっといて冷たくなってしまった過去の記憶がさくらの脳裏ではじけて身体中を駆け巡ったかのようだった。さくらは震えが止まらないまま、その紙束をむさぶるようにめくった。そして最後のページには見覚えのある文字が目に飛び込んできた。
『20××年三月十日。戸板橋から七本目の桜の木の前。田畑さくらと待ち合わせ』
 この文字は十年前に織田との再会の約束を、さくらが書いたものだ。
 間違いない。これは十年前のちょうどこの日、織田に渡したはずのさくらが書いた小説だった。


#18につづく

「クルイサキ」#18

「クルイサキ」#1 序章


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