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「クルイサキ」#8

さくら 4
 
 高校生活最後の文化祭があと一週間に迫っていた。
 さくらのクラスではふるさと歴史博と銘打ってこの地方の歴史の調査を行い、展示する催しが企画されていた。
 放課後の教室はその準備のために当てがわれ、織田との創作活動は休止せざるを得なくなった。都合、ここ数週間は織田が絵を描くのを見られなくなっていた。彼と会話もしていない。
 さくらは文化祭の催し物には深く関与していなかった。我がクラスにはそれは立派な委員長が一団を率い青春を謳歌していたので、さくらは邪魔をしないように与えられた役割だけを粛々と行えばいい。それは郷土料理のレポートだった。
 それでもさくらは作家を目指している手前、中途半端なものにはしたくなかった。
 しばらくはそのレポートを書き上げることに集中し、教室が利用できず織田との密会ができなくなったヤケクソまでも、そのレポートにぶつけた。委員長に提出し、さくらの文化祭の任務は終了した。
 委員長は興味なさげにさくらのレポートを読んだあと「ありがとう」とだけ告げて、文化祭の準備をしている一団に入っていった。さくらが魂を込めて書き上げたレポートは誰かの机の上に置き去りにされていた。さくらはここにはもう居場所はないことを知り、帰りの支度をする。放課後の教室は、織田とさくらの二人だけの空間だったはずなのに。さくらは心が疼くのを自覚した。織田の席には彼の荷物はすでになく、教室を出た。
 織田が絵を描く姿をまた見守りたい。あと一週間の辛抱だと思いながら、校門を過ぎると、声を掛けられた。
「一緒に帰らない」振り向くと織田だった。見上げる格好で織田の顔がすぐそこにあった。心臓が跳ね上がって思考が圧迫する。
「か、帰り道反対だよ」
 いきなりの申し出に戸惑いを隠すことができなかった。ついあまのじゃくが出てしまって、言ってすぐに後悔する。もっと素直になれたらいいのに。
「いや、君の帰り道の方向にちょっと用事があって」
「なんの用事なの?」言いながらさくらは甘い期待を抱いた。ちょっと織田くん、 告白ですか?
「絵の用事があるんだ」さらっと言われた。期待していたことはすぐに打ち砕かれ、自分の早とちりを戒めるように、さくらは綻びかけた顔を引き締めた。それでも「いいよ」と答えた表情は多分嬉しさを隠しきれなかったはずだ。
 
 織田を校門に待たせ、さくらは自転車を取りに行った。自転車置き場までの道のりは、焦らされた欲望を宥めるために、ゆっくりと歩いた。いままで待たされた分、彼への反抗心が態度に表れたのも理由のひとつだ。
 彼との繋がりを断たれたこの数週間、悶々とした日々がつづいていた。文化祭のレポートを考えるとき、どうしても織田のことに何度も思考が飛んでしまっていた。
 彼に会えないあいだ、彼に訊きたいことがたくさん積もっていった。進学はどうするの?空の絵、完成しそう?
 そのとき思い出す彼の顔は笑ってはくれたけれど、さくらが問い掛ける質問にはなにひとつ答えてくれない。
 自転車を引きながら、校門に行き、織田の元へ向かった。緊張で歩き方がぎこちなくなって、肩が張った。
 久しぶりに近くで会った織田は間近で見ると肌が焼けていて、随分と印象が違って見えた。さくらはなにから話し出そうかと思案していると、彼はなにも言わず歩き出してしまった。さくらは不意をつかれ、彼を追うのにしばらくの時間を要してしまった。
 頼りがいのないなで肩を、やじろべえのように上下させながら歩く織田の背中を見つめながら、こうやって彼の背中を追っているのは、屋上まで連れて行ってくれたとき以来だと思った。あのときはまさか本当に一緒に帰る日が来るなんて想像もしていなかった。そういう妄想はこれまで幾度となくしていたのだが。
 一緒に帰るという言葉の響きが、さくらの心臓を激しく揺り動かしていた。落ち着かない心臓を撫でて宥めようとするのだが、まったく効果はなく、逆に心臓が巨大化しているのではないかと疑うくらいに、動悸が増していく。
 彼はそんなさくらを気にした素振りも見せず、織田はさくらを待つことも、歩く速度を緩めることもしなかった。彼自身の速度で歩き、会話をしようともしない。たまに帰り道をさくらに尋ねるぐらいだ。
 それにしても今日の織田は様子が変だ。絵から離れれば、沈黙は耐えられない性分なはずなのに、今日は腹を立てているかのようにずっと黙り込んでいる。織田から誘ったというのに。
 それから織田は公園を見つけ、さくらを連れて入った。いつも自転車で通り過ぎる公園で、さくらにはすでに見慣れた場所だった。学校のグラウンドの倍ぐらいはありそうな広い敷地に遊歩道が巡らされて、ジョギングをする人や、犬を連れて散歩する人たちが見受けられる。桜の季節になると何本ものソメイヨシノが花を咲かせ見物客で賑わう、この地域では有名な公園だ。
 織田はベンチに腰を下ろした。さすがにさくらの座るスペースを空けるくらいの気遣いはできるらしい。さくらは彼の隣に座った。
 織田は真正面を向いたまま、口を開く様子はない。だけどその表情からは怒っているというより、なにか考えごとをしているように見てとれた。なにか言いたいことでもあるのだろうか。何度も大きく吸った息をため息のように吐き出し、言い出すタイミングを計っているようにもみえる。
 いまはまだ花を咲かす素振りもない桜の木の下で二人はしばらくのあいだ沈黙の時間を過ごした。
 春になったら、織田とはどうなっているのだろうか。そのころは高校を卒業し、新しい生活が始まっている。さくらは近い未来に想像を巡らせた。
「卒業したらどうするの?」随分前から気になっていたことだった。さくらは声が震えないように、平静さを装い、訊いた。
「君はどうするの?」織田はさくらの覚悟には応えてくれず、カウンターブローのように、さくらの言葉を押し返してきた。
「私は地元の大学に進むつもり。できれば市内の大学がいいかな。おばあちゃんを一人にはできないし」織田はすでにさくらに両親がいないことを知っている。両親が亡くなって、おばあちゃんと二人で暮らしていることを伝えたとき、織田の細い目が大きく見開き、逆にさくらが驚いた。まるでバッタ並みの跳躍を見せたほどに、彼のまぶたが飛んだ。だから両親がいないことをいつも人にはじめて話すときに抱く劣等感は、彼の場合はまったく感じなかった。
「それよりもこんなところでみち草していていいの。なんか用事があったんでしょ」少し苛立った声になった。他にも訊きたいことがたくさんあるのに、ゆっくり二人で語り合いたかったのに、彼の不穏な態度に歯がゆさを感じずにはいられず、なかなか素直になれなかった。
「ああ、その用事は今日ではないんだ」織田はなにか煮え切らない態度だった。
「じゃあ、いつなの?」
「三ヶ月後、それから十年くらいは掛かる」
 さくらは彼の言っていることを理解できなかった。それからつづく言葉の意味も同様に耳から入力されただけで、まったく頭のなかで展開をみせなかった。
「卒業したらパリに行くんだ」注文していない荷物がたくさん家に届いたかのようにさくらは戸惑いを隠せなかった。彼の横顔を見つめるが、彼はさくらと向き合うことを拒むように、正面を見据えている。
 半分だけ見える織田の顔が少し困った表情にも見え、それでさくらはとりかえしのつかない失態を犯してしまったかのように、理由のわからない罪悪感で、心が支配されてしまった。
「だから、しばらく一人で集中して絵を描きたいんだ」織田はようやくさくらに顔を向けた。だけど今度はもうさくらの方が顔を彼に向けることができない。
 彼を視線から排除すると、彼の言っていることがわかった。そしていま、彼がさくらに対して放った意味も理解できた。
 さくらの都合は織田には関係がない。放課後、創作する姿を見られていることが、彼には邪魔だったのだ。彼の集中力を遮っていたことにいま気づいて、さくらは自分が恥ずかしくなった。
「パリに行く前にどうしても仕上げておかなければならない絵があるんだ。ごめん」
 彼はそれっきり黙り込んだ。
 沈黙を打ち破るには、もはや怒りの感情だけしか表現が残されてはいなかった。
「私は作家になるの」強がりだった。ぞんざいな言い方になった。前に一度同じことを彼に告げたことがある。そのときはもっと殊勝な声が出たのに。
「いいね」彼の落ち着いた態度が気に入らなかった。子供の夢をあしらうような反応がむかつく。
「ウルトラマンでもいいかな」
「すごくいいね」全然よくはない。
「あんたなんてすぐに忘れちゃうから」
「寂しくなるね」
「そう?」なかなか素直になれない。
「もちろん、君と会えないと思うとすごく寂しい」
 空を泳いでいるように彼は自由だった。さくらを置き去りにしてどこまでも飛んでいく。それは無重量を具現した紙飛行機のようで、じつに軽やかに気持ちよさそうに自由を飛んでいる。彼はそれを許された、限られた人間なのだ。少々わがままでも、人の気持ちに疎くても、彼の才能は人の峻厳を気にも留めず、思うままに進んでいくことができる。
 一方のさくらはいくらあがいても、訴えても自由は沼のように纏わりついてしまう。体が自由というシガラミに押し潰されてしまい、その空間ではうまく呼吸ができない。翼の持たない者は自由な空へは飛んでいけない。自分の無力さを痛感し、所詮、つりあうことのない間柄だったことを知り、地上から彼の才能を羨ましがることしかできない。自分は空のなかでは生きていられない。
 教室で彼と過ごした時間からすでに感じていたのかもしれない。二人は違う世界にいることを。
 織田の空のデッサンに、彼の才能の一端に触れると、たちまちさくらは取り残される感覚に襲われ、彼に近づこうとしても、それを許してはくれない足枷が身動きを封じさせていた。さくらの両肩を劣等感が押しつけ、その場で釘づけにするのだった。
 一方、彼の長い足は先へ先へと進んでいく。彼の一歩はさくらの何年もの時間が費やされるほどに遠く、そして深い。いつしかさくらは一人にとり残されることに、臆病になっていた。
 彼に否定してほしかった。真正面で向き合って、さくらを励ましてくれるときを、ずっと待っていた。だけど。
 もう会えない。卒業したら会えなくなる。彼はそのことを言うのに、少しの躊躇いもみせず、さくらに言いつけた。
 さくらの身勝手な願望は、やっぱり彼には届かなかった。
 さくらは腰を上げ、自転車にまたがった。彼の表情が気にはなったけれど、泣き顔になっている顔を彼に見られたくはなかったから、なにも言わず、振り返らず、織田と別れた。
 自転車のペダルをこいでも、織田から遠のいても、彼への想いは追ってくる。諦めて自転車から降りて、涙をこぼさないよう空を見上げた。
 もはやどうすることもできない。身勝手な想像も彼がいなくなれば、空は届かない高さまで願いを吸い上げてしまって、さくらに彼の存在をも教えてはくれない。
 もうこれ以上離れたくはない。彼と同じ目線にいつまでもいたい。さくらはその思いをずっと心のどこかで抱いていた。ただずっと一緒にいられたらいい。そしていつの日か彼と歩く速度も慣れ、沈黙だって全然気まずくはならない。
 夢ばかり追い求め、理想に恍惚とし、飛躍しすぎた想像にずっと隠されていた純粋たる思いは、薄暗くなってきて、はじめて発見できる一番星のように、唯一空に残った。彼といたい。いまはただそれだけの願いが、さくらの胸を強く締めつけ、手には届かない上空でありながら輝いてみえる。
 だけどその願いですら、もはや口にはできなくなってしまった。もしもそれを否定されてしまうと、さくらにはもう空を見上げる理由をなくしてしまうのだから。


#9へつづく

「クルイサキ」#9

「クルイサキ」#1 序章

「クルイサキ」#2 1章 花嵐 さくら1

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