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「クルイサキ」#16

前回までのあらすじ
高校の卒業式の日にさくらはパリへ留学する織田と10年後の再会を約束した。そのときにさくらを標的にしていた死神はさくらに好意を抱いてしまい、さくらではなく嫉妬心から織田に狂気を向ける。
死神は標的ではない人間を殺害したため、罰を受け死神の世界から排除されてしまう。
さくらに死神が向けられた理由は彼女には人間には与えられていない能力が備わっていたからで、その能力にまだ彼女は気づいていない。

二章 休眠打破

さくら 9

「同じ空は一度もない」
 十年前の高校の卒業式の日、空に与えられた特権を誇るかのように、言葉に力を込めて彼は断言していた。
 それなのに今日の空があの日と同じように晴れ渡っていて、まるで十年前の空を用意したかのようであったから、困惑を覚えずにはいられない。
 光が自由奔放に空を泳ぎ回り、空の青さを鮮明にしている。巨大な空が春の訪れを知らせようとするかのように、体をふんわりと包み込む。その暖かさに体が浮遊する。
 こんなに近い空を、さくらは記憶していた。光の眩しさや春の匂い、圧倒的に鮮やかな青、なにもかもがあの日と同じだった。
 見事なまでにあの日に再現された空は、まるでなにかの力に導かれて作られたかのように思えてならなかった。十年後の二人の約束の日を覚えていた空が、気の利いた演出を施してくれたのだろうか。さくらは心に自然と込み上げてくる熱を空中へと逃がすように、長い時間、空を見ていた。
 十年前に約束した場所にさくらはいた。戸板橋の中程に立ち、そこから遊歩道を眺める。今日さくらは織田とその場所で再会を果たすはずだった。十年前に戻って、彼との約束を確認することはもはやできなくなってしまったが、あの頃の記憶を思い出すことはすぐにでもできる。彼のことを考え、高校時代に思いを馳せていると、不思議と彼が本当にこの場所に来るのではないかと、有り得ない期待を抱いてしまう。織田が向こうから少しうつむき加減で、こちらを覗き見るようにやって来るのではないか。いつも恥ずかしげに、手持ちぶさたの両手を必要以上にポケットに突っ込んで歩くものだから、足をつまずかせて、笑ったこともあった。いまでも本当は、こっそり世界のどこかで生きているのではないのかとそのうち本気で思えてきて、いつの間にか待ち合わせの独特の期待感が胸のなかで潤っている。
 今日と同じような空をしていた十年前、彼はさくらと別れたあと、この世を去った。もう彼と会うことは許されなくなった。あの日の空は美しかった。彼は何度もそのことをさくらに興奮気味に話していた「今日の空は美しい。吸い込まれるようで、実際、空を飛んでいるかのようだ」
 空を愛していた彼は、あまりにも美しかった表情をしていた空に、とうとう限界を忘れた。いてもいられなくなり空に求愛をしたのだろうか。昂ぶった感情で声も震えて、期待と不安の入り混じった告白を空へと投げた。塵一つなかったあの日の空はまっすぐに彼の愛情を吸収したが、なかなか答えを返さなかった。彼はやきもきして、いよいよ、飛んだ。
 もう彼は地上に戻らない。空の居心地は地上の重力などでは引き戻されないほどに心地よいのだろう。全生命が彼を欲しても彼の耳には届かない。一度、空の快感を知ったものは地上に戻りはしない。
 それでもせめて今日の約束の日だけはちゃんと覚えていてほしい。はるか上空からでもいいから今日の約束の日をふと思い出して、さくらになにかしら届けてくれないのだろうか。もし会うことが叶わないのならば、さくらを忘れていないという彼の記憶の欠片を、一粒でもいいから天から届けてほしい。
 彼が十年前に空に願った望みを、さくらはいまだに空に向かって望む。空に触れたい。そして決して叶うことのない願望を、彼を隠してしまった空に訴える。
 あなたに触れたい。
 そう思った瞬間、空はあの日と同じ表情をしたままだったが、あんなに近く感じていた空が優越感を含ませて高く伸びたように見えた。空との距離が離れていき、彼の返事を寄越してくれる気配はまったくない。
 さくらはため息を吐き出し、じっと橋から遊歩道を見渡す。     
あれから十年が経った。それまでのあいだ、さくらはこの川辺の遊歩道に来ることはなかった。さくら自身がこの場所を避けていたからだ。
 この場所は織田との記憶だ。十年前、彼と最後に別れたこの場所は、まださくらに残っている心の傷を開かせ、織田の死を痛烈に実感させる。さくらはそのことを容易に想像できていたから、この十年のあいだにこの場所を訪れることはしなかった。
 まださくらは織田の死を受け入れられず、この十年間は彼との記憶を慎重に扱い、それが壊れないように、織田の死を心のどこかでいまでも否定しつづけている。      
 十年という年月は彼が死んだことを納得できるほど長くはなかった。
 織田と交わした今日の約束の日、さくらは約束の場所に来た。あの日、織田と誓った約束はまださくらの心に生きつづけている。そして今日その約束は果たされる。彼が来ないと理解できていても、さくらは織田と約束した場所で、十年前に誓った卒業式を行う。
 さくらはまだ花を咲かす気配を見せない桜の木を見た。あれからさくらはこれまでの十年間、あの日に決意した目的を果たせることはなく、この日までの時間を無駄にしてきた。そんな自分に卒業する資格があるのだろうかと思う。
「あなたはどう?」さくらは空を見上げ、呟いた。
 底を見せない空はさくらの声を吸収した。しっかりと彼に届けてくれているのだろうか。わずかに聞こえる風声が空中でさざめいている。この場所から空とのあいだに次元の狭間があるようだ。それがもどかしくてならない。
 さくらは半ばやけくそぎみに飛ぼうともがく。じたばた、じたばた。
 そうすると彼のいろんな表情が思い出されてくる。空を語るときの幸福感に満ちた顔。久しぶりに会うときに見せる恥ずかしそうな顔。絵を描いているときにしか見せない真剣な顔。
 十年前の彼の表情がコマ送りのように、大胆な変化を見せていく。そして一番穏やかな表情をしたところでようやく落ち着いた。
 さくらは無抵抗なあなたをいいことに、一方的に話し掛けた。
 心から納得できる空の絵はできましたか?
 あなたは空の絵を求めていた。空の絵を何度も描き、それ以外の絵を描こうとはしなかった。
 さくらからは届かないくらいに高い場所に行ってしまったあなたは、いまそこで何を感じ、何を描き、何を求めているのだろう。
 今日までずっと約束の日を待っていた。今日までの日々をあなたに顔を寄せ合って教えてあげたい。あなたがしてきたことをあなたの声で聞かせてほしい。
 だから、今日だけ、生きてよ。
 空には二羽の鳥が飛んでいた。
 空が青い理由を知ろうとしているかのように、上昇をつづけている。
 その様子を眺めていると、ふと織田の言葉を思い出した。
「あの鳥が空に触れれば体の色が空の色になって、次に目の前で空を飛んでいても気づかないのかもしれないね」
 いつか織田は空を飛ぶ鳥を見ながら、そう呟いたことがあった。彼は都合のいいように青い鳥の話を解釈し、さくらに聞かせた。あのときの織田の表情は、まるで空に近づくことができる鳥に嫉妬していたようにも見えた。
 あの日、織田と二人で見たあのときの鳥は、空に触れることができたのだろうか。
 鳥が空を優雅に飛ぶ姿は、空に染められ青く見える。まるで空に見初められ、青いドレスを身に纏っているようだ。そして、それはよく似合っている。
 さくらもまた、空にいられる鳥に憧れを抱いた。織田を閉じ込めた空と鳥との関係性がお似合いで、それがまた羨ましくも思えてくる。
 果てしなくつづく空のてっぺんまでのあいだには、もどかしいくらいの広大な空中がある。
 だけど空を見える限りに見渡してみると、さくらは気づいた。
 地上からでも空に抱き締められている。
 決して翼はなく、鳥のように空を自由に飛ぶことはできないけれど、いま立っているこの場所だって空の中なのだ。さくらは鳥と同じ空間にいて、空を感じることがこの場所からだってできている。そもそも空と地上との境界線なんてものは存在しない。
 織田を奪ってしまった空を介して、彼を感じることだってできるはずだ。
 さくらは両手を広げ、体をいっぱいに伸ばした。空を見上げたまま、大きく息を吸い込んだ。
 そして目を閉じると、織田の笑顔が鮮明に思い出されてきた。
 織田が身近な存在に感じられた。
 青い鳥の話のように、こんな近くに彼がいたことにやっと気づき、さくらは手を伸ばし、空に触れる。

 さくらは十年前に二人の卒業証書を埋めた木に向かった。橋を渡り遊歩道に入ってから七本目の桜の木の下だ。十年前この木の下でさくらは織田と抱き合った。
用意していたスコップを取り出し、土に突き刺した。
作業を始めてからしばらくは人目が気になったが、土を掘り返すうちにまったく気にはならなくなった。見つけたときは「あった」と、声を張り上げるほどに気分は高揚していた。
 二つの筒があった。十年前に織田と二人で埋めた卒業証書だ。これまで土のなかでずっと陽が当たるのを待っていた。
 さくらはその場で立ち上がり一つの筒を開けた。ぽんという音がした。紙が筒の奥で怖がっているように丸まっている。さくらは手のひらに口の方を何回か当て、紙を落としていった。その途中で筒のなかに紙が二枚あるのに気づいた。一枚は十年前の卒業証書であろうが、もう一枚は見当もつかない。
 その一枚をさくらは広げた。それを見た瞬間、涙が込み上げてきた。
 女性の顔が描かれていた。
 さくらを描いた絵だった。自分自身では見たこともない笑顔だった。彼がデフォルメを施したのだろうか、本当に楽しそうな表情をしている。     
 織田は人物の絵を描いたことがないと言っていたことを思い出した。この絵は彼が初めて描いた人物画なのだろうか。彼が空を描くときの後ろ姿が思い出され、胸が締めつけられる。        
 彼はどんな思いでこれを描いたのだろう。
 空の絵には使わなかった絵の具をパレットに出すとき、違和感はなかったのか。肌の色を作るときにさくらの顔を思い出してくれたのだろうか。
 覚えていてくれた。あなたの記憶のなかにさくらの顔は一瞬だけでもいい、ちゃんと刻まれていた。
 だけど彼の記憶のさくらは、やっぱり十年前で止まっている。あれから時間は流れていることをさくらは知っている。
 十年前に流すはずだった涙が、頬を伝っていった。どこかで凍ってしまっていた感情がいま溶けだした。
 彼が死んだと聞かされたとき、涙は出なかった。その事実を信じたくないために、彼の死が具現された喪失感や、彼の生を否定する堪えきれない哀惜の念を、心に無理に閉じ込めた。泣くことで彼の死を認めたくなかった。
 だけど、いま思い出される彼はあの頃のままで、なにも成長していない。これまでの十年間、彼に対して抱いていたのは過去のことばかりで未来ではなかった。
 彼の死を受け入れなければいけないと強く感じた。今日のさくらの卒業式は織田の死を認める儀式だ。そう思うと堰をきったように、涙が止めどなく流れていく。十年分の涙は彼と過ごした一年弱よりも何倍も多い。
 彼との過去は時間が経ち過ぎたのか少しだけ彼女を酔わせ、込み上げてきた思いは、さくらの理性とうまくつき合わせようとでもするように、胸を痺れさせた。弛緩する心のドサクサにまぎれて、彼女は彼の死をじっくりと受け入れていく。
 深く息を継いだ。震える身体に教え諭すように。
 十年経っても織田が描いた絵は色褪せていなかった。あれからこんなにおばさんになっちゃった。さくらは十年前の自分に語り掛けた。 
 絵を小脇に抱えて、もう一枚の紙を筒から取り出し広げる『田畑さくら』自分の名前がある。今度は本物の卒業証書だ。いつの間に彼はさくらの筒のなかにこの絵を忍ばせていたのだろう。
 彼を偲んで、さくらはまだ生きていく。そうしなければならない。決別することで自分を身軽にして再び歩き出す。卒業式はそのための儀式でもある。
「田畑さくら」十年前のさくらに向かって声を出した。
 卒業おめでとう。卒業証書と彼が描いてくれた絵を引き寄せ、胸のなかで過去の自分とその言葉を分け合った。
 さくらは持っていたものを一端地面に置いて、もう一つの筒を持って空けた。彼の卒業証書はぼやけて見える。彼の名前がいまだけ命が宿ったかのように揺れている。
 彼も卒業させてあげなくては。空いっぱいに聞こえるように読み上げよう。
「織田雄平」
「はい」
 さくらの背中から返事が聞こえた。


#17へつづく

「クルイサキ」#17

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 さくら1

「クルイサキ」#3 死神1

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