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「クルイサキ」#20

さくら 13

 亮太を見つけるのに大した手間は必要でなかった。
 先ほどまでいた川辺の遊歩道に亮太は戻っていた。橋の上から彼を見つけ、遊歩道に向かう。彼は川を眺めるような格好で芝生に腰を下ろしていた。
 亮太の隣にさくらは座り、しばらくのあいだ言葉を交わさず二人で川を見ていた。今日の川の流れは緩やかで、見ているだけなのに飽きがこない。
 川のうわべが輝いて見えるのはなぜだろう。太陽の光が反射して見えるからなのだろうか。もしも自分の心がきれいだったら、悩んでいる目の前の相手をきらきらと輝かせることもできるのだろうか。
 さくらにも悶絶するような出来事にこれまで何度も遭遇した。
 父が死んだとき、好きだった人と離れなくてはならなくなったとき、それが永遠につづくと知ったとき。
 時間の流れはそれらを解決してはくれない。それがなにもなかったことに、完全に忘れられることには絶対にならない。だから、人はつらい出来事に身を震わせ、涙を流し、なんとかしようと足掻きしながら、ゆっくりと時間を掛けて、それを受け入れることしかできないでいる。
「生きることって楽しいことばかりではないよね」
 さくらが言っても、亮太は黙ってそのまま流れる川を見ている。さくらも視線を川に戻し、川に向かって話すように、言葉を紡いだ。
「私が生まれたと同時に母が死んでしまったの。私を産む前に自分の命が危険だということがわかっていたんだって。それでも母は私を産んでくれた」
 そのときを思うと呼吸が窮屈になる。当時母はさくらを産むことをなぜ辞めなかったのか。どうして自らの命の危険を冒してまでもさくらを産んだのだろうか。
「私は母の命を奪い、いまも生きていられる」
 目の前を流れる川の水はその動きを止める気配はない。まるでそれが使命だと思っているかのように迷うことなく流れている。もしかして母はさくらを産むことに使命を感じていたのだろうか。
 母の記憶はない。写真で見る母と共にさくらが一緒にいることはない。さくらと母は本当に一瞬でしか同じ時間を共有できなかった。
 さくらを生きさせてくれている母の記憶を、さくらが少しも持っていないことに罪の意識がある。だからこそ母を犠牲にしても、いまあるこの命を少しでも大切にしようとも思う。
 さくらだけではなく、いま生きているすべての人に母親は必ず必要だという当たり前のことに改めて気づいた。すると、亮太と千絵との話し合いのあと、亮太がその場から去っていくときに見せた千絵の悲しげな表情を思い出した。
 亮太が生きていられることにだって亮太の母親の存在が不可欠だ。たとえ亮太にその記憶が失われてしまったとしても。
 さくらは亮太に向かい、彼の表情を窺う。彼は絶望しているように、顔には覇気が失われている。
「千絵さんだってあなたのことを思って行動し、心配していたはずだよ。だからこの十年間あなたに伝えることができなかった。あなたを守ることが千絵さんの使命だったんだよ」
 亮太が立ち上がった「ちょっと歩こう」と、ようやく口を開いた。二人で遊歩道を歩き出す。
「どうする記憶は?さっきの話を聞いて、なかなか納得はできないとは思うけれど、まだ記憶を取り戻したい?」先を歩く亮太の背中に問い掛けた。
「正直、母の話がショックだった。僕は十年前自ら命を断とうとしていたなんて。まだ記憶を取り戻したい気持ちはあるけれど、すべてを受け入れられる準備が自分にはまだできていないのかもしれない」亮太は立ち止まり、さくらが横に並ぶのを待ってから言った。それから二人は肩を並べ、川沿いの道を歩いた。
 いま歩いているこの道は十年前にも織田と別れたあとに通った道だ。この川辺はもうしばらくすると桜を咲かせる。十年後に織田と二人でこの道を再び歩くことを夢見ていた。
 十年前、高校を卒業し、織田と最後に会った日、それはさくらにとっていままで何度も想起し、心が掻き乱される一日となってしまった。
「もう十年か」
 さくらは空を仰ぎ、呟いた。織田と卒業しなければいけない。彼との思い出はもう作れなくなってしまった。その事実を受け入れ、さくらが再び歩き出すためにはこの十年間は冬に目覚める桜の木のように必要な時間だったのだ。十年前に止まった時間を再び動かすために、さくらは約束の場所に来て、卒業式を行った。そうして自分にけじめをつけたかった。
 川の流れはさくらたちとは逆に向かっている。時間をさかのぼり、いまになっては織田を助けにも、母に会いに行くこともできないけれど、過ぎてしまった時間を知ることはいまからだってできるはずだ。
 陽は傾いてきている。気づけば亮太の顔が赤く染められていた。思えば彼と初めて会ったというのに、妙な親近感があったなと思った。もしかして自分の記憶もなくなっていて、実は以前に出会っていたのかもしれないのかとも考えた。
「私があなたの過去を調べてみる。そしてあなたが、過去を知りたいといつか思ったらあなたに伝える。さっきあなたのお母さんから小学校のときの担任の連絡先を聞いたの。手がかりがあるうちは調べて、あなたに報告するわ」
 亮太はしばらくのあいだ沈黙し、逡巡したような表情をしたあと「ありがとう」と言った。
「あなたがどうして私の小説を持っていたのかも知りたいから」
 亮太はようやくさくらに向かい視線を合わし、ゆっくりとうなずいた。
 
 亮太と別れたあと、十年前に織田と別れたあとに通った遊歩道をさくらは一人で歩いた。
 あのとき、織田と別れた直後、太陽は高く空を大きく支配していて、その光がさくらの視界全体を輝かせていた。
 まだ織田が生きていると思っていて、早くも十年後の再会の場面を妄想し胸を躍らせ、まるでそうすれば時間が早く進むのかと信じているかのように、駆け足でこの遊歩道を駆け抜けた。
 いまは陽が暮れ、太陽の光による染色は変わっているが、風景はあのころのままで大きな変化は見受けられない。
 それでも、十年ぶりの風景は、さくらに豊かな感慨を与えてはくれない。織田がいないということにきちんと向き合いきれなかったこの十年間で、さくらの心は枯渇し、織田との思い出と関わっているものから、逃げ出したいと思うようになった。
 彼を忘れてはならない。でも、引き摺ってはいけない。夕日から逃げていくように伸びる影とうまく別れる方法が見つからなくても、脳裏に纏わりつく生々しい記憶を、端然と受け入れられる方法はきっとある。
 織田の声を思い出す。あのとき、助けを呼ぶ声がだれにも伝わらず、命を失うその瞬間に彼は空を見上げただろうか。ひどい世界で共存を拒むように高いところに昇った空を、彼は最後にどんな気持ちで見ただろうか。そして彼が恋焦がれた空はそのとき、どんな表情で彼を迎えたのだろうか。
 さくらは空を見上げた。織田のそのときの心境を察すると、空が落ちてくるような絶望感が覆いかぶさってくる。彼の視界が閉ざされるとき、きっと空も暗闇にされたのだから。
 織田と空との関係を断ち切った者を許すことはできない。
 さくらの心の奥では、いまだに消化できない感情が潜んでいる。それは織田が死ななくていけなかった理由がまだ理解できていないから、いまも生きつづける感情だ。
 それをさくらはこの十年間、ずっと心の奥にその感情を沈めていた。浮かび上がらせれば、自我を狂わすパンドラの箱だと知り、無理に心に閉じ込めていた。
 卒業証書を見る。自分は本当に成長しているのか?この卒業証書を与えられる資格をこの十年間で得られたのだろうか。
 空に見初められた彼が、もしもそのはるかに高い場所からさくらを見ているのならば、彼はきっと悲しむであろう。(君は僕を探してはくれないのか、空にいることを知っているのに、君は飛ぼうとしない、君は臆病ものだ)彼はそう嘆くのかもしれない。
 彼の死をまだ受け止められず、これまで彼の死の現実から目を背けていた。そうしてずっと空を真摯に見上げることをしなかった。
さくらはまだ彼の姿を追い求めている。彼はきっと自分と同じ世界のどこかにいて、空の絵を描いているのだ。それは十年前の人なつっこい笑顔のままで、そこから彼は成長を止めている。
 記憶はそのままずっと残っていく。
 一方で記憶を失った亮太を思う。
 自分が誰だかわからず、自分の人生でさえも途中参加のように感じてしまうと言っていた。それを口にする亮太の目は、どこか自信に乏しく、まるで人の体を借りているかのように、よそよそしかった。一体、彼の瞳の奥に隠されている記憶は、まだ亮太自身でさえも想像できないような映像が眠っているのだろうか。
 彼の瞳の奥で暗躍する過去は、まだ光も当てられず、姿を現さない。閉じ込められた記憶に、愕然とする働きが隠されているのだとすれば、そのまま放っておく方が得策なのかもしれない。さくらがでしゃばる必要もない。
 ただ、もしも彼の過去に織田が死ななくてはならなかった理由があるのだとすれば。その可能性を知ってしまったからには、彼の過去を眠らせておくことはできない。そしてそれを知ることができたのならば、ようやく織田が残る記憶は空へと昇り、今度はさくらを見守る力へと変わるかもしれない。


#21へつづく

「クルイサキ」#2

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
「クルイサキ」#16 二章 休眠打破


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