「クルイサキ」#7
死神(タロウ) 3
不穏な気配を察したのか、彼女は振り返り、足元に視線を落とした。彼女と目が合う。どうやら近づきすぎてしまったらしい。逃げようとするが、足がすくんでしまった。体がうまい具合に動かず焦る。
自転車で移動する彼女を、全速力で追っていた。彼女が赤信号で止まったので、一気に距離を縮めた。だいたいターゲットから四、五メートルが催眠を掛けるのに適当な距離である。もちろんもっと接近するのに越したことはないが、あまり近づきすぎるとターゲットに気づかれてしまう危険がある。それなのに、彼女に催眠を掛けなくてはならないという強迫観念からか、彼女との距離間がうまく取れなくて、いつの間にか目と鼻の先ほどの距離まで彼女と接近してしまっていた。そして彼女に気づかれた。
彼女はしゃがんで、怪訝そうに首を少しだけ傾けて、見つめてくる。その視線に吸い込まれそうになる。
訝っていた彼女の表情が突然、ほころんだ。それでますます体が硬直して、肉体に入り込んだら、しなければいけない呼吸を、束の間忘れてしまうぐらいに動揺していた。
鼻先を三回突っつかれ、両脇を抱えられた。宙に浮き、彼女の顔が目の前にあった。
「君、名前はあるの?」
名前はまだない。
いまはただの名もない猫だ。名前がないのは不便なことで、いろいろ困ることも多かった。名前があればと何度思ったことか。稚拙な文章のうえに、主語がなくては収拾がつかない小説を読んでいるかのように、混乱を感じていたところだ。首を素早く左右に振り、名前ないの、と強くアピールした。
「よし、君はタロウだ」
彼女の視線はタロウの下半身に注がれていた。オスだと判断したらしい。体を引き寄せられ、抱き締められた。彼女の真っ白な制服が土色に汚れたのが見えた。彼女はかまわない様子で、タロウの頭を撫でる。頬の筋肉が自然と緩んでしまう。
タロウという響きにうっとりする。タロウには名前がある。タロウはそのことがうれしい。タロウは照れる。タロウはタロウという名前に陶酔し、タロウはタロウと自分で何度も呼んで、名前のありがたみを噛み締める。
「私はさくら、どうぞよろしく」
タロウはさくらに抱かれたまま、奇妙な感覚を覚えていた。
彼女と触れ合う肌がこれまでに感じたことのなかった感触を呼び込んできた。体感したことのない未知なる感覚が全身を急激に温め、タロウに肉体の熱を実感させた。
タロウは自転車の籠に乗せられ、さくらはペダルを踏み、自転車を発進させた。
顔に浴びせられる風が心地よかった。さくらの表情を窺おうと振り向くと、彼女は微笑みを返してくれた。彼女に受け入れられていることを確かめずにはいられず、何度も彼女に振り向いた。あとで首が痛くなって、それならば最初から彼女の方を向いたままでいればよかったなと後悔したくらいだ。
彼女は通学のさいにいつも利用しているはずの駅には行かず、自転車のまま自分の家に戻った。一時間以上は自転車に乗っていたはずだ。お尻も少し痛くなっていた。
さくらは門扉を開け、アプローチを通り、玄関の手前の段差は前輪を浮かして、器用に自転車を乗り入れた。段差を超えるときタロウが飛び上がったのがおかしかったのか、さくらの笑い声が背後から聞こえた。
「おばあちゃんただいま」玄関の扉を開けると同時に彼女は言った。
さくらはタロウを抱きかかえたまま靴を脱いでいると、白い割烹着を着た背中を丸めた、それこそおばあちゃんが出てきた。タロウはおばあちゃんの手に包丁があったので、死神が現れたかと思った。さくらを助けようと身構えた。
「新しい友達かい」おばあちゃんはタロウに細い目を向けてくる。そういえば死神は自分だった。
「そうだよ。タロウっていうんだ。どうぞよろしく」さくらはそう言いながらタロウの頭を押しつける。
「ゆっくりしていき」
おばあちゃんは世界の規則をすでに知っているかのように、タロウに特別な関心を示さず、去っていった。
さくらに抱かれたまま家のなかに連れられ、タロウはどうしていいのかわからず心が落ち着かない。
この世界にきた理由はちゃんとある。だけど、この家にきた意味はまったく見出せない。さくらに誘われるがまま、ここまで来てしまった。なにをうかれていたのだろうと自分を戒める。
催眠を掛けたいのならば、彼女と顔見知りになるのは明らかに得策ではない。彼女に入り込む瞬間、他と認識され、相手に違和感を与えてしまうからだ。いまの状態では催眠を掛けるのが困難になってしまった。このままだと再び憑依する生き物を探さなくてはいけなくなる。
逃げ出すタイミングはあったはずだった。なんならいまここで彼女から離れ、彼女の家から飛び出すことも不可能ではない。だけどそれを実行するのに二の足を踏んでしまう。
もしかしたら、タロウの方が催眠に掛けられているのかもしれない。彼女と触れ合う肌に、意識が奪われていき、選択すべき選択を決断することができない。
タロウが煩悶していると、湿気が含まれた個室へ連れていかれた。
これまでにも何度か人間に催眠を掛けてきていたので、人間の生活はおおよそ理解している。たしかこれはお風呂というのだろう。たしか裸になって入るはずだ。だけど、彼女は制服を着たままでタロウを連れて浴場に入ったので、少々がっかりした。
そこでいきなり冷たい水を掛けられた。虐待かと思っていると「ごめん、まだ水だったね」と言いながら、彼女は水を手に当て、蛇口を調節した。
さくらに体を押さえられていて、逃げることができない。水を再び向けられた。
身構えていると、冷たいと思っていた水は温かかった。なんだか拍子抜けするほど、体に馴染んだ。
人間の生活や知恵を理解しているが、実体験は未知なことがまだ多い。肌に浴びせられている湯は、気持ちよかった。
さくらが謎めいた液体をポンプから出してタロウにつけた。タロウはこそがしいく、身を捻らせた。さくらは絶妙な手つきでタロウを踊らせているのが楽しいのか、はしゃいでいる。
こっちは死神なのに。すっかり操られてしまっている。
だけど、楽しい。体を動かすリズムにあわせて泣き声を発すると、さくらに「マイケルみたい」と、言われた。
両脇を支えられ、二本足で立たされながら、後ろに引き摺らされた。「むーんうぉーく」彼女が言う。
体が綿菓子みたいに泡立ったタロウはもはや任務を忘れてしまっていた。
禁断の遊びを手に入れたような充足感がタロウの体を駆け巡る。
ただ、これでいいのか。こんなのでいいのかという不安も同時に感じていた。
タロウの体にお湯が注がれた。一瞬にして体が軽くなる。ほてった体に心をゆだねると、自然と声が出た。「にゃー」
「気持ちよさそうだね。私もシャワー浴びようかな」さくらは浴場から出て行った。擦りガラスの向こうで制服を脱いでいるのがわかった。浴場だけに欲情した。
感情を我慢できるはずがなかった。肉体が破裂しそうになった。
じっとしていられず、タロウは窓までジャンプして、外へ逃げた。
#8へつづく
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