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「クルイサキ」#18

さくら 11

「これ読んでみて」
 10年前、二人が唇を重ねたあと、さくらは織田に自分の書いた小説を渡した。織田と長いあいだ会えなくなるので、織田の望み通り、彼にさくらの処女作を渡すことを決意していた。キスの照れと自分の書いた小説の恥ずかしさで顔が熱くなった。
 春の訪れが来ている。それを感じ取ったさくらは私も花咲くときが来たのだと、自分でもダサいと思うことを思ってしまって、さらに顔が赤くなっていくことを感じていた。
 織田の顔も赤くなっている。それが春の陽気のせいだとは思いたくない。さくらがいま感じている幸せが織田と共に訪れたのだと信じたい。
「十年なんてあっという間だよね」さくらの問いに織田は穏やかな表情をして応えた。彼は十年を目安に絵の勉強をパリでするらしい。それまで会うことはできないと言われていた。だから十年後に再会の約束をし、それまでお互い目標に向かって精進していこうと誓った。
「あなたは忘れっぽいから、十年後の約束もすぐ忘れちゃうんじゃない」さくらはいたずらっぽく言った。
「そんなことないよ」
「本当に?」さくらは織田から先ほど渡した小説を取り上げ、鞄からペンを出し、最後のページの裏にペンを走らせた。
『20××年三月十日。戸板橋から七本目の桜の木の前。田畑さくらと待ち合わせ』と、書いた。卒業証書を埋めた木の前、二人が初めてキスをした場所を再会の場所にした。
「初めて書いた小説だから。読者はあなただけなのよ。光栄に思って」
「はい。感想文も書いてきます」織田が殊勝に答える。
「レポート用紙で五枚ね、十年後までの宿題だよ」さくら再びペンを走らせる。『絶対に来る』さくらは願いを込めて最後のページの空白に、書いた。
「これで大丈夫だね。小説がおもしろくなかったからって捨てたりしたらだめだよ」さくらは自作の小説を再び織田に手渡した。
 織田は何度もうなずいた。それでさくらは本当にしばらくのあいだ会えないのだと思って、また涙が出そうになる。
「絶対に、忘れないでね」
「忘れるはずがない」
 彼のその言葉を信じることができたから、あのときさくらは涙をなんとか堪え、笑顔で織田と別れることができたのだ。

「なんであなたが持っているの?」つい咎める口調になった。さくらは織田と二人だけの約束に、別の誰かが知らないあいだに介入していたことが、どうしても受け入れられなかった。
「まったく覚えていない。なんでこれをぼくが持っているかもわからない」亮太は強く首を振った。
 いったいどういう経緯で亮太の手に渡ったのだろうか。織田は死んでしまっているし、亮太は記憶をなくしてしまっている。織田と亮太の二人に、なにか繋がりでもあったのだろうか。
「これ私が書いたんだ。そしてある人に渡したものなの」
「ある人って?」亮太の表情に悪びれた様子はなかった。子供が好奇心で訊くような表情であったから、さくらはすんなりと言えた。
「死んじゃったよ。ちょうど十年前の今日」
 亮太は少しだけ驚いた表情になり、今度は悲しい表情になった。それでちょっとだけ、心が軽くなった。鬱積していた悔悟の塊の欠片を、彼がほんの少しだけ受け持ったかのようであった。
「殺されちゃったの」さくらは言葉をつづけた。沈黙も喧噪もこの場にはふさわしくない。いまさくらに必要なことは十年ものあいだ心のなかに積み重なっていった悔悟の塊を、どうにかして流失させることなのだ。
 織田の事件でさくらが知っていることを亮太に話した。十年前に卒業式を終えたばかりの高校生が通り魔に襲われた。まだ犯人は捕まっていない。少ない情報だが、亮太に伝えるとき、さくらは声も痛みを感じているのだと思った。さくらの口から発せられた声は、十年のあいだ体内で無理やり隠され、ずっと解放されなかった感情を含んだ声だ。その声は本当に外に出ていいのかと、怯えているように震え、傷ついていた。
 亮太はさくらのその声に同情したのか、慮ったように優しい声で相槌を打つ。そのあいだ、彼はずっと悲しい顔をしていた。
 話を終えると、呼吸が軽くなった気がした。息を作り出すところが清掃されたかのようだ。だけどそれに反して亮太は険しい表情に変わっている。
「僕の記憶がなくなったのも十年前だ。時期が一致している」
 亮太は逡巡するように視線を彷徨わせた。失った記憶を必死に思い出そうとしているかのような顔つきだった。忘れ物の正体さえも忘れてしまった。それに気づいていてしまった彼は探さずにはいられない。一向に定まろうとしない視線は、完全に着地点を見失っている。
「あなたが持っている小説は私が事件の日に渡したものなの。あなたがそれを持っているのならば、事件の日にその近くにいたってことじゃない。現場の近くで拾ったのかもしれないし、もしかして人づてに渡されたのかもしれない。あなたの小学校がこの近くなのだから、十年前のこの日、事件に巻き込まれて、記憶をなくしたという可能性もあるんじゃない」
 亮太は事故で病院に運ばれたと言っていた。ただ記憶をなくした亮太にはその事故自体を覚えていない。どうして記憶を失ったのかも亮太は知らないのだ。亮太が記憶を失ったときと織田の事件の日は時期が一致し、亮太はなぜかさくらが織田に渡した小説を持っている。織田の事件とのあいだに亮太が記憶をなくしていることとが、なにか繋がっている可能性があり、もしも亮太が織田の事件に関わっているのであれば、未解決である織田の事件の真相に迫れるかもしれないとさくらは思った。
「あなたの過去を調べるの、私も手伝っていい?」
 意外な申し出であったのか、亮太の細い目が見開いた。
「私なら土地勘もあるし、あなたさえよければの話しだけど」
「いいの?僕のことよく知らないのに」亮太は不安げに訊いてきた。
「あなただって自分のことをよく知らないでしょ」
 さくらの申し出を亮太は受け入れた。さくらは何から手をつけていこうかと思案している最中、亮太はグラウンドでボールを追い駆ける子供たちを熱心に見ていた。亮太は子供の時代の記憶が欠落し、その時代のことに思いを馳せることはできない。できるのは失ってしまった過去を存在しないと諦めるか、探し求めつづけるかだ。亮太は後者を選択した。それはこのまま記憶が回復しないままだったら、子供を見るたびに亮太は自分には子供のときの記憶がないという劣等感に襲われてしまうからであろうか。
 そんなことを思っていると「亮太」と、声がした。声がした方向を見ると女性が早足で来る。亮太の方を見ると、彼は驚いた表情でその女性を迎えた。
 女性はさくらを一瞥したあと「どうして」と、亮太を咎めるような口調で言った。
 亮太は困ったように眉間にしわをよせて「母さん」と言った。


#19へつづく

「クルイサキ」#19

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破



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