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「クルイサキ」#4

さくら 2

 ホームルームが終わり、イスと床が擦れる雑音が一斉に響いた。それを合図に解放感が一気に放たれた教室はもう彼らを引き止める理由を失くして、寂しげな表情で生徒を見送っているようにも感じる。
 さくらはゆっくりと時間を使って教科書を鞄に入れたり、意味もなくノートをめくったりして、時間が過ぎるのを待った。数人の友人が一緒に帰ろうと誘ってくれたが、適当な理由を言って断った。
 さくらは織田の席を振り向いた。彼は窓側の席で外を眺めている。まだ席を立つ気配はない。今日も絵を描くつもりなのだろう。
 さくらの席は教室の一番前で、後ろの席の織田を授業中に見ることはできなかった。昨日もらった絵のお礼をまだ言っていなかったし、挨拶さえも交わしていない。高校三年生になっても、学校内で男子生徒に声を掛けることには、まだ気恥ずかしさが心のどこかに残っている。意識している相手には特にある。
 昨夜、織田が絵を描くのに付き合おうと心に決めていた。彼と約束したわけでもなく、自分勝手に決めた。家から文庫本を持ってきて、彼が絵を描く姿を読書しながら見守れば、それほど彼の邪魔にはならないだろう。自分の部屋で、一人で練る作戦はなぜか大胆になるものだ。
 騒々しかった教室も、数人の話し声が聞こえるだけになった。
「あなたの絵を描くの見てていい?」授業中に心のなかで練習した。言葉に出してもいないのに、うまく言えない想像が何度も頭を巡った。演技っぽくて、自然さが欠けていて、そのぎこちなさはさくらをもどかしくさせた。
 さくらは背筋を伸ばし、深呼吸をした。勇気を吸って、体内に残る臆病な気持ちをすべて吐き出すように、意識して深く。
 昨日、織田からもらった絵を思い出す。彼の描く空を感じていたい。その気持ちに変わりはない。
 周囲の雑音はもう耳に届かない。緊張しているのがわかる。さくらは優柔を断ち切ろうとイスを勢いよく引いて決断した。
 立ち上がって、ひと呼吸置く。一番前の席から正面の黒板を見つめ、黄色いチョークで『勇気』と想像で書き殴った。
 さくらは後ろを向いた。
 織田はいなかった。ましてや誰もいなかった。からっぽの教室は風を迎い入れ、さくらを嘲笑しているかのようにさざめいていた。後ろの黒板を見つめ『残念』と想像で書いた。チョークの色はなんとなく青色だ。
 織田の席へ目を遣ると、窓から太陽の光が射し込んでいて、まるで主人の留守で自由を手に入れた使い人のように、光たちは机の上を眩く飛び、遊んでいた。彼の席にはまだ鞄が提げられている。どうやらまだ帰ってはいないらしい。
 さくらは用意していた文庫本を鞄から取り出した。織田が教室に戻って来るまで時間を潰すことにした。
 
 本の文字を見送りながら、彼のことを考えていた。
 昨日、はじめて会話をした。知っているのは名前と、学年、性別、そして絵を描いているということぐらいだ。
 昨日のあの瞬間まで他人のことをあんなに意識したことはなかった。18年のあいだ、さくらの心のどこにも存在していなかった感情だった。
 彼からもらった絵は、さっそく部屋に飾った。好きなアイドルのポスターをすべて外して、いまの部屋は彼の描いた夕空の絵が、白い壁に貼られている。六畳間の窮屈で混沌としていた部屋を、意外にも調和させる効果があった。
 部屋の照明を消すと、壁の絵は暗闇に紛れて見えなくなった。学習机の蛍光灯を点けると、太陽が昇ったかのように、彼の絵の空は再び明るくなった。白色の光は赤い空によく似合っていた。
 さくらはベッドに座り、彼の絵をしばらくの時間眺めていた。リアルな世界でちっぽけな存在でしかなかった自分が、不思議とちょっとだけ大きく思えた。
 小さな部屋だけど、空がこの空間にあって、さくらはその部屋のなかを空と共有している。奇妙な錯覚を作り出すように描かれた空のなかに入り込み、彼女は彼の作り出した世界で飛んでいることができる。絞った明かりが、丸っこいぼんやりとした世界を演出させて、彼女はその存在をより一層、際立たせていた。
 彼に自分のことをもっと知ってほしい。さくらは冷たい膝を抱えながら、彼が描いた空の絵に向けて、熱を求めるような欲望が心に駆け巡っていることを自覚していた。

 文庫本が残り少なくなって、もう一冊持ってくればよかったなと思っていると、背後から声がした。
「まだいたの?」織田の声だった。
「えっ……あっ、ちょっと、読みたい本があって」慌てて言い訳を述べていた。
 振り向くと、織田の手には木製の額が掲げられていた。
 さくらは咄嗟に本を彼に見せた。彼に聞かれてもいないし、内容も頭に入っていなかったけれど「おもしろいよ」と本の名前を告げた。彼はまったく関心を示さずに、教室の壁に、手にしていた額を立て掛けて置いた。
 さくらは織田に駆け寄って、たったいま彼が立て掛けた額を手に取った。
「これは、なにに使うの?」と織田に額をかざして訊いた。
 彼は額を片手で持って、さくらの目の前で掲げた。二人で額を支えあって、織田と対峙する格好になった。額を間にして、織田と向かい合い、さくらは顔が赤くなっていくのを自覚した。
「どうだい、二枚目に描けているだろ」
 織田は格好をつけるように、凛々しい顔つきをした。
 まったく意味が理解できず、首を傾げると、織田は「ちょっと来て」と、さくらに背を向けた。
 早歩きをしながら、彼を追った。彼はさくらに気を使う素振りも見せずに、どんどんと進んでいく。彼の頭のなかには、肩を並べて、ふざけあいながら女の子と歩くなんて想像がないのだろうか。さくらの頭のなかはその想像でいっぱいなのに。
 先を行く彼に引っ張られるように、自然と足が動いていく。彼の背中から催眠術の力が出ているのではと疑いはじめる。
 彼は階段を一段飛ばしで登って、あいかわらずさくらを気にする素振りは見せない。それでもさくらは彼を見上げながら、彼との距離にあるわずかな空間に、星が散りばめられたような空を感じた。
 いくつもの世界が、可能性が知れた。それは彼までの視線に込められた妄想だったのかもしれないが、さくらはそのひとつひとつの世界を愛しいと思った。
 彼が立ち止まった。目の前に扉があった。彼は躊躇もなく扉を開いた瞬間に、明るい空が二人を出迎えた。光が一斉に二人を包み込んだ。
 学校の屋上だった。織田は足を踏み入れて、立ち止まったままのさくらを手招きする。
 さくらは屋上に入り空を見上げると、さくらの視界にさっと陰が通過した。
 織田の持っていた額がさくらの視界の隅に置かれている。額を通して空を臨んでいる格好だ。
「いつもこうやって絵の構図をイメージするんだ」額をさくらの前でかざしながら、織田は言った。
 額のなかに収められた空は、ただひとつの空から切り取られたことで、一層に躍動感を溢れさせた。独立した誇りを浮かべ、堂々と空を誇示しているようにも見える。
 織田が額を動かし、空の絵を変化させていく。さくらもそれに合わせて首を動かす。
 鳥が飛んでいるところが見え、その鳥を追うように額は移動していく。
「見える?鳥が飛んでいるの」織田は興奮しているのか、声を弾ませた。
「僕らは翼がないから、空へ行くことはできないけど、彼らは翼を持っているから、空で飛ぶことができる。もしかしたら、すでに空の上にまで行っているのかもしれない。もしかしたら、あの鳥がこの世界以外の世界で生まれて、この世界までいま旅をしに来た。そういう可能性だってあるんだ」
「なにを言いたいの?」正直、反応に困った。
「つまり、あの鳥は違う世界で生きていたのかもしれない」
「宇宙人だっていうの」
「人ではないことは確かだけど」鳥は額を外れ、どこかへ飛んでいってしまった。織田は落胆した表情をしながら「あの鳥はもとの世界へ戻っていったんだ」声を落として言った。本気なのか冗談なのかは判断できなかった。
「僕はいつも鳥を見つけると、いろんな可能性を探すんだ。もしかしてあの鳥がいま僕の前に飛んでいるのには意味があると考える。僕になにかを教えにきたのかもしれない。僕はそのことを見逃さないために、鳥が飛ぶ姿をずっと見たりする。ただ単純に鳥を羨ましくも思ったりもする。鳥は空を自由に飛び、地上を見下ろしている。それは僕らにはできないことなんだ」
「その話し長くなる?」
「いや」
 そう言ったのに、彼は長い時間鳥のことを語った。彼は鳥と一緒に空を飛んでいるかのように嬉しそうな表情をして話すので、なかなか彼の話に入っていけず、置いてきぼりな感じがする。だけど活き活きした表情をする彼を見ることは退屈しなかった。
 言っていることの大部分は理解できなかったけれど、彼は本当に空が好きで、そこで飛ぶ鳥に様々な感情を抱いていることは伝わった。
「空はいつも未完成なんだ。これからも絶対に完成することはない。だけど空は試行錯誤していきながら、一番美しい空に辿り着こうとしているんだ」
 いま、空の色は赤く変色していくところだ。無鉄砲に空にばら撒いた赤色がきれいだ。だけどしばらくすると空は失敗作を塗り潰すように、真っ黒に空を染める。そしてどう描いていこうか下書きをするかのように、星を散りばめさせる。
 額のなかの空の絵は、多分完成はしない。つまり、彼が描く空の絵は完成することはない。彼はそのことを知っているのにも関わらず、それでも空の絵を描きつづける。
 その決意は空を創造した神に似て、無謀な考えかもしれないけれど、彼をずっと応援していく気にもなれた。


#5へつづく

「クルイサキ」#5


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