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「クルイサキ」#14

さくら あらすじ
パリへ留学する織田との別れが迫っていた。卒業式を終えたあと、さくらは織田と川辺の遊歩道で、桜が咲いているのかを二人で確認するために待ち合わせをしていた。

さくら 7

 空は青く澄んでいるというのに、さくらの心はどんよりとした雲が停滞していた。いまにも降り出しそうな雨を避けようと家路へ急ぐ心境に似ていて、織田との別れをないことにするために、彼との約束を破ろうかと真剣に悩んでいた。
 彼はさくらと会っておそらく最後の別れをするつもりなのだろう。織田に別れを告げられた瞬間に、さくらはもう彼と会う資格を失ってしまう。
 それならば彼とは会いたくない。決定的な言葉を彼の口から聞きたくなかった。
 卒業式が先ほど終了した。式の最中、根拠もなくずっとつづいていくかと感じていた高校生活もやはり終わりがくるものだと知った。永遠につづくことなんてなにひとつない。
 そんなこととっくに知っているけれど、織田ともう会えないってことまでも決めつけてほしくない。
 雪が降り積もった川辺の遊歩道での思い出はさくらにとって嬉しい記憶だった。他にも織田との記憶が心に残っている。
 だけどそのすべての記憶にピリオドを記されれば、それらの記憶はすべて悲しいものとなる。
 それならば織田と会わなければよかった。彼と話さなければよかった。好きにならないと思っていればよかった。
 彼から決定的の言葉を告げられたとき、どんな表情をして、どんな言葉を返せばいいのかわからない。仲間からはぐれてしまい、森で迷い込んだ野うさぎのように、不安が心を支配する。懸命に答えを導き出そうとするのだが、わずかな光も見当たらず、訪れる雨の気配に身を縮めることしかできない。
 さくらの持っている少しの勇気はどこへ向かおうとしているのかさえもわからなかった。織田と会うことがつらいのか、会わないでいることの方がつらいのか。つらいことを乗り越えることが必ずしも正しいとは限らない。さくら自身がなにを求めているのかが理解できないから迷ってしまう。
「卒業したらパリに行くんだ」あの日、前触れもなく、さくらの心にもたらされてきた彼からの連絡は、抱いていた淡い期待を、一気に黒い靄で覆い隠し、視界を悪くさせた。約束された別れのときがもう寸前まで迫っていたことを、さくらはようやく知った。突然出現した雨雲は、さくらの心のなかで拡大しつづけ、いよいよ今日雨を降らせる。いつ止むかまったく見当がつかない長く冷たい雨を。
 再び光を浴びるためには、雲が過ぎ去るのを待つか、それとも雲より上に行くか。そのどちらかしかなく、さくらは鬱屈とした塊の扱いに手をこまねく。
 見上げれば世界に一つしかない空が透けて見える。空に触れたいという欲求を伝えてみる。空はなにも返してはこない。いったい空はどこからが空なのだろう。空はどこから形を持っているのだろう。
 深いため息がでた。まるで体が萎んでいく風船のようだ。これまで好きという気持ちだけでどこまでも上昇できた。それが、地面がないことに気づくと、たちまち不安でいっぱいになり、幻想のなかでいることが窮屈になってきた。あちこちに穴が開いていき、落下していく。空に触れられない現実を突きつけられた衝撃で。
 触れられることのできなかった空に、これからどうやって付き合っていけばいいのだろう。もうこの空の下で幻想はもてない。違う空をまた探していかなくてはいけないのだろうか。その気力はもう残されていないというのに。
「キャンパスに向かっているとき、僕は空と会話しながら、筆を走らしているんだ。楽しげに晴れた空には筆を踊らせ、悲しく曇った空のときは、筆を濡らす。空の呼吸を感じ取り、空が今日も生きていることをキャンパスに表現する。空は生きていて、僕はその活動を描くんだけだ」織田の言葉が思い出される。彼の表情は頑是無く、本当に空を愛していた。
空は織田を吸い寄せ、さくらのいる地上からさらっていった。さくらと織田はこれから、違う次元で生きていく。
 空と地上との境界線が二人を引き離す。
 彼は今日の空をどんな風に描くのだろう。彼の描く空をもっと見たかった。さくらは地上から彼の描く空を見上げることしかできない。
 さくらはポケットから役目を終えたばかりの定期入れを取り出して、父の写真を抜き取った。
 父はいつもの笑顔でさくらを励ましてくれる。
 父はさくらをよく助けてくれた。記憶がよみがえる。

 学校に入学して初めての授業参観だった。それなのに父は遅れて教室に入ってきた。
「すみません、すみません」聞き慣れた父の頼りない声が、背後で聞こえてくると、さくらは背筋をピンと伸ばした。先生の言葉を聞き逃すまいという姿勢を装い、父からの視線を待った。
「勉強がんばっているよ」
 昨夜、父に学校の様子を尋ねられて、さくらは力強く答えていた。大袈裟に胸まで叩いてみせた。
 言ったからには勉強を頑張っていなくてはならない。親子のあいだで嘘をつくことは許されない。たった一つの親子の約束事だった。
 それにしても次の日が参観日とはなんてタイミングが悪いのだろうか。無論、父は明日が参観日なのだから、おそらくそういう質問をしたのだろうけれど。
 さくらの日ごろの授業態度はというと、とても目を向けられたものではない。自分のことなのだから、目を向けたくても絶対に無理なのは承知の上でそう断言してみる。
 せめて今日だけは、父の前だけは良い子でいたい。さくらは手を合わせた。神様、今日だけ北島君みたいな優等生でいさせてくれない?
 先生の質問にわからなくても元気よく手を挙げた。どうか名前を呼ばないでという気持ちを込めて天に向かって一直線に手を伸ばした。神様、願いを届け。
 その気持ちが通じたのか、それともお調子者なことを知っている先生の配慮からか、指名されないで授業は進んでいった。
 終了を告げるチャイムが鳴るまででもう少し。
 先生が黒板に問題を書いた。クラスを見渡し「この問題わかる人?」と、いつもの調子で言った。
 おそらくこの質問が最後だ。さくらは元気よく手を挙げた。クラスメイトも親が来ているからみんな手を挙げるはず、これまでも先生の質問に、全員の生徒が挙手していた。
 さくらは完全に油断していた。
「はい!」
 手を挙げた生徒はさくら一人だった。
 さくらはテニスのラリーを追い掛けるように左右に視線を巡らせた。やはり誰も手を挙げていない。北島君でさえこの質問には実際に手は挙げていないがお手上げだという感じだ。みんなちゃんと答えがわかるときだけ手を挙げていたのだとはじめて気づく。
 さくらは手を挙げたまま、肩を落とした。落胆と焦りが汗をかかせる。
「はい!!」
 さくらの背後で元気のいい返事がした。ピカピカの一年生のような純粋でそれで温かみのある聞き慣れた声。
 振り向くと、父が直立したまままっすぐに手を伸ばしていた。手を挙げている方の脇から白いシャツがはみ出ていた。罰を受けたあと、先生が「わかった?」と訊かれたときに早く解放されたくて「はい」と返事をする男子生徒のようだとさくらは子供ながらに思った。
 さくらだけではなく、クラス全員が父を見ていた。先生は父を指名しないと収集が着かないと判断したのか「田畑さんのお父さん」と父を指した。父は「まったくもってわかりません」と答え、少しだけクラスを賑わせた。

 なぜあの日のことを思い出したのだろう。
 だれど、父のカッコ悪い姿を思い出すと、勇気が湧いてきた。織田を求めていることを認めるための勇気だった。
 たとえ、それが遼遠の別れを告げに来ることを知っていたとしても、さくらは織田に会いたい。それは確かなことだ。
 さくらは約束の場所に向かった。桜の花が開いていることを期待していた。

 住宅街から戸板橋に向かう坂を自転車で上ると川沿いに遊歩道がある。前に織田と雪遊びをした場所だ。地元の人々はサイクリングロードと呼び、川沿いに何本もの橋の下をくぐりながら八キロほどある遊歩道だ。さくらはすぐには遊歩道には入らず、橋の中程に立ち、橋から川を眺めた。遊歩道は川を介して両端にある。もしも、桜が咲いている木があれば、この場所からすぐにわかるが、一本も桜は花を咲かせてはいなかった。川の向こうにそびえ立つ巨大な山に理不尽な怒りをぶつけてみるが、やはり山はまったく動じない。
 さくらは自転車から下りて、遊歩道に入った。何本もの桜の木が列をなしてさくらを迎えた。桜の木は枝の先につぼみを蓄え、いまは花咲く前の準備段階で、なにかそれは卒業式を終えたばかりのさくらの心境にも似ているような気がした。
 少し遊歩道を歩くと、織田はくたびれた学生服を着て、しゃがみながら川を見ていた。彼はさくらに気づくと立ち上がって、控えめに手を振った。その手には卒業証書を閉まってある筒を持っていて、晴れやかな表情をした彼は海外に行くことに期待を膨らませているように見えて、さくらは嫉妬を覚えた。
「桜はまだだったね」織田はたいして残念そうな素振りも見せずに言った。桜の木は期待に応えられなかったことに申し訳なさを感じているのか、枝が頭を垂れていた。
「まだ、三月に入ったばかりだから、しょうがないよ」桜の木を慰めた。
 彼の表情を窺うために視線を上に傾ける。彼の希望に満ち溢れた表情の向こうにまだ咲くには時間を要するつぼみがある。そのうち、この通りは開花した桜で色鮮やかになるのだろう。
 織田にさくらのお気に入りの景色を見せてあげたかった。
 織田と出会ってからまだ一年も経過していない。一度でいいから彼と肩を並べて、桜が満開になったこの通りを二人で歩いてみたかった。欲を言えば彼の手を握り締めたまま、桜並木を通り過ぎて、もっと遠くまで一緒に歩いていきたかった。
「卒業に桜は付き物のようにずっと思っていたけど、それは固定観念だったのかな」
 桜の花びらを見られないことが、心残りかのように織田は言った。彼は桜がいますぐに開花しないかとつぼみを見上げている。
「卒業アルバムに桜が写っていたけど、あれは使いまわしだね」
 卒業式が終わったあとに配られた卒業アルバムの裏表紙に、グランドの桜の木が花を開かせている写真が使われていた。先ほどそこを見たけれど、花びらはまだ開いてはいなかった。
 織田は桜が劇的に開花するのをやっと諦めたかのように、川の方に向かい、芝生に座る。両手を後ろにつき、空を仰ぐ格好になった。さくらもそれに倣う。太陽の光をたくさんに含んでキラキラとしている青空が見える。
「桜も咲いていないからかもしれないけど卒業の実感が全然湧かない。まだ勉強しなければいけないことがたくさんあるし、卒業おめでとうって言われても、いまいちピンとこない」
「卒業ってタイムリミットだもんね。一定の期間が終了したらそれで終わり。個人の技量や感慨なんて気にしない。やり残したことがあっても猶予は許されていないから」
 さくらは卒業と同時に終了したタイムリミットを嘆いた。やり残したことがたくさんある。もっと多くの時間を彼と刻みたかった。
「なにかやらなければいけなかったことがいっぱいあったような気がする」 織田はふんぞり返り、自分に問うように呟いた。最初から反応を期待していないと思えるほどの忍び音だったけれど、さくらは耳聡く「あなたがやり残したことってなに?」と訊いた。
 織田は空を見上げたままでしばし沈黙した。風の音を聴いているかのような静かさを彼は佇ませたままで、風の波をかき乱すことのないよう慎重になって「さくらを見たかった」と答えた。
「多分、パリでも咲いてるんじゃない?知らないけど」
 彼は充分にもったいつけて、見上げていた視線を横に移し、さくらを見た。
「ひとりじゃつまらない」
 さくらは彼の視線を正面から受け止めることができず、目を逸らした。
「パリから帰ってきたらまた会えないかな?」
 さくらは横から聞こえた声があまりにも震えていたので、答えを導くことを躊躇った。振動が思考を停止させ、ただ揺さぶられた心が彼の声と共鳴し、さくらの目を潤ませる。
「だめかな。パリに行っても絶対に君を好きでいられるよ」
 春の訪れは暖かくなっていく気候と共にゆっくりと近づいてくる。春めいた色香を含んだ東から吹く風が季節の秩序を追い越しさくらの側を過ぎ去った。芳春のときが訪れたことを感じ、さくらは笑顔を咲かせた。
 あまりにも突然の春風に熱を帯びた顔が赤くなっていくのを感じる。そのことを織田に気づかれたくなかった。
「その前になにか言い忘れていることがない?」
 あまりにも素早かった彼の思いに追いつくために、さくらは時間の逆戻しをすがった。織田一人だけ、好き同士という気持ちを独占していたのがずるい。
「君のことが好きだ。僕はそのことを言うのをすっかり忘れていたよ」
「なんでそんな大事なこと忘れるのよ」やっと肩を並べられた。二人には身長差があるけれど、彼の好きという気持ちがあれば、これからもずっと同じ空間で同じ時間を過ごすことができると信じられる。
「ごめん。どうりでこんなに胸が苦しかったんだ。それが一番の後悔だったんだ」
 さくらはすでに涙を堪えることを放棄していた。頬にそれが辿ったのを感じた。
 彼に言わなければいけないことがある。さくらは大きく息を吸った。
「私も、好きよ」生涯初めての告白は声に出してみると、想像していたよりずっと素直な気持ちでいられてしっくりとくる。祝福するような風のざわめきも耳に届いた。
「君のやり残していたことは果たせたかい?」
「どうだろう。そんな大層なことでもなかったような気がする」
 彼は立ち上がって、さくらの正面に立った。
「パリから帰ってきたらまたここで会おう。それまで僕は絵の勉強を頑張る。そして胸を張って卒業式を二人でしよう」見栄をきるように彼は誇らしげに宣言した。
 織田は桜の木の下に向かった。太い幹に手を触れる。さくらも腰を上げ、織田の隣に立った。見上げると真上にはつぼみのままの桜の木の枝がさくらたちを覆っている。それでも少し早く春の訪れを感じて心が潤っていたさくらは、まだつぼみのままの桜の木に少し優越感を抱いた。織田もさくらと同じように上を向いている。きっと彼は空を見ている。
「ちょっと待っていて」彼はそう言って、姿を消した。再びさくらの前に現れた織田は手に太い木の枝を持っていた。織田はその枝を使って土を掘り起こしはじめた。
「なにをしているの?」さくらは訊いた。
「タイムカプセル」
そう言ったきり織田は顔についた土を気にする素振りも見せずに黙々と動かしていく。
「ねえ桜の木の下に死体が隠されているって言わない。もしかして死体が出てくるかもよ」
 さくらの冗談にも織田は反応せず一心に土を掘った。五十センチメートルほどの穴を掘り終えると、その穴に織田は卒業証書の入った筒を置いた。それでやっと彼が何をしようとしているかが理解できた。
「君はどうする?」
さくらはしゃがんで卒業証書の入った筒を、織田の筒と寄り添うようにして置いた。
「私もまだやらなくてはいけないことがいっぱいある」
 それから二人で卒業証書を入れた穴を埋めた。途中で織田が「橋から何本目の桜の木か確認してくれない」と言うので、さくらは手を止め、わざわざ橋まで戻り、桜の木を数えながら彼の元に戻った。七本目の桜の木だよと彼に教える。穴はすでに塞がっていた。
 織田はさくらに向き直った。彼は手を払いながら、満足げに頷く。
「二人の再会のときに、掘りおこそう」
「ちゃんと覚えていられる?あなたは大事なことを忘れていたぐらいだから不安でしょうがないよ」
 さくらはいじわるを言うように抑揚をつけた。
「忘れるわけない」
 さくらは織田に手を引き寄せられた。彼の胸に飛び込む格好となった。すぐに彼の腕が背中に回された。
 土のにおいがした。新鮮なのにどこか懐かしい心地がした。それがさくらの体に染み渡るように流れていく。遅れて全身の震えを抑えさせる分け隔たりのない高潔な喜びがさくらの細胞に奉仕された。
 求めていた居心地がようやく見つかった。身を委ねたままでさくらは春の訪れを噛み締めていた。


#15へつづく

「クルイサキ」#15

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 さくら1

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