見出し画像

「クルイサキ」#9

死神(タロウ)4

 さくらを標的に、この世界に降りた日から三ヶ月が過ぎようとしていた。ここ数日のあいだ、静かに降りつづいていた秋霖が昨夜止んで、陽が沈む時間が短くなった。いま空は雨をしまいこみ、冬支度をするように雪を準備している途中なのかもしれないと、タロウは空を見ながら思う。
 この季節になるまで、死神の仕事をさぼっていたわけではない。さくらに顔を覚えられてしまったので、彼女からしばらくのあいだ離れる必要があった。催眠を掛けるさいに、親しい間柄になればなるほど気づかれてしまう。相手の記憶に存在が強く残っていれば、気配をすぐに悟られてしまう。さくらの記憶からタロウの存在をできるだけ消す時間が必要だったのだ。
 それならば一度違う猫に移り変わればいいという考えが最初頭をかすめたが、できるだけ多くの命を奪いたくはなかったというエコ的理由で自分を納得させたが、正直なところ、タロウという名前を手放したくはなかった。結局はタロウという存在を簡単に消滅させたくなかった。
 そのあいだ、タロウは彼女を遠くから観察し、次の機会の作戦を練っていた。いつどの場所で、どのタイミングで催眠を行えばいいか、彼女の行動パターンを知り、成功する確率が高い方法を考える必要があった。あらかじめ標的の情報は与えられてはいるがいつも漠然としていて、ほとんど役には立たない。現場での調査が肝心である。
 猫の機動力では学校と彼女の家までの距離を調査するには範囲が広すぎると判断し、彼女の自宅付近に範囲を狭め、この付近で催眠を行うことを決めた。
 彼女は近所に出掛けるときは、ほとんど自転車で移動する。自転車は機動力があって、催眠を掛けるのが難しい。猫の足では彼女を追跡するのがやっとだった。
 追跡をしているうちに、彼女はある道だけ自転車をわざわざ降りて移動する場所があった。
 そこは、小学校に沿った歩道だった。彼女はその歩道を通るときは、なぜか自転車から降りていつも歩いている。
 なぜ彼女はその歩道は自転車を降りて歩くのか、その理由はわからない。  たしかに歩道で自転車に乗るのは禁止されているそうだが、そんなルールを守る人間は皆無に等しい。ただ、その歩道は小学校に沿って設えてあるだけに小学生は頻繁に通る。特に下級生は予期せぬ行動をすることがあるので危険ではある。それが理由なのかもしれない。
 その場所には街路樹が設えられていて、隠れられる場所が豊富にある。タロウはこの場所で催眠を掛けることを判断した。
 そう決めるとすぐにタロウの心のどこかで暗い感情が芽生えたことに気づいた。本来であれば最後の任務の目途がつき、多少は開放感を得られるはずだ。それなのにいま心のなかで蠢く感情はタロウの気分を憂鬱にさせた。その正体が知れずひどく居心地が悪い。
 任務が無事完了すれば、タロウは念願だった世界へ行くことができる。もう死の心配をしなくていい。それなのにこの感情はなんなのだろうか。夢だったその世界がもうすぐそこまできているというのに。もしかすると彼女に情が移ってしまったというのだろうか。
 タロウの運命は彼女が握っている。任務を達成できなければタロウは不死にはなれない。これが最後の試練なのだとタロウは自分に強く訴える。こんなところで躊躇っている場合ではないのだ。
 はっきりと見えはじめた希望の光が大きくなっていくにつれて、影が濃くなっていくように、タロウは暗澹なる感情の存在を強く認識する。心に重く染み込んでいく影は、どの感情が作り出しているか判然とせず、いまだにタロウの気分は晴れない。
 そうした厄介な感情を抱えたまま、決行の日を迎えた。

 学校が休みの日曜日、タロウは彼女の家を見渡せる場所で標的が出てくるのを待っている。
 標的は祖母との二人暮しで、学校が休みの日には一人で近くのスーパーマーケットまで買い物に出掛けることが多い。そのときはあの歩道を通る。
彼女が自転車を引いて、玄関から出てきた。
 タロウは標的の姿を確認すると、催眠を掛ける歩道まで向かった。まだ買い物に出掛けるのかは定かではなかったが、どうせ催眠を掛ける場所はすでに決めているので、彼女の出先を確かめる必要はない。
 全速力で走り、目的の場所に着いた。タロウは適当な植え込みの陰に隠れて、彼女を待つことにした。
 空は曇っていたが、太陽の光はそれさえも邪魔にならないほどに強い。陽はまだてっぺんを目指して登っている途中で、曇り空であってもまだまだ明るくさせようという太陽の心意気が感じられる。
 本当に彼女はやってくるのだろうか。この時間の人通りは比較的少なく、犬を連れて散歩する人や、買い物を頼まれたのか、スーパーの袋を提げた中年男性が歩道を通っているくらいだ。彼女の姿がいまだに確認できず、動悸が強まる。
 これが最後の催眠になるかもしれない。
 死神の最後の任務を見事といわれるほどに完遂するべく、心の浸入には水溜りの水面を滑るアメンボのように、華麗に移動したいものだ。
 移動という言葉は的確ではないのかもしれないが、感覚的には移動すると言ったほうがしっくりくる。思考を標的に近寄らせ、すっと心の内側まで飛ばす。催眠のイメージを何度も繰り返しているうちに、彼女の姿が見えた。
彼女はすでに自転車から降りていた。標的が催眠を掛ける範囲にまで近づいてくるのをじっと待つ。
 これが最後なのだ。タロウは自分に言い聞かせた。首尾よく任務を完了させれば、タロウは上の世界へ昇級できる。今日中に永遠の生を手に入れることも可能なのだ。
 肉体はもう必要なくなる。
 雲の切れ間から、太陽が顔を出した。あらゆる場所で影がその姿の存在をはっきりと現しはじめている。
 タロウにも影が伸びている。肉体はいま借り物だけれど、手にしている。魂だけのときは、面倒くさくて、嫌悪していた姿だ。意味もない感覚を与えてくる厄介なものだと思っていたはずだ。
 タロウは借りた猫の手で不器用ながら、疼いている胸を掻いた。このところずっと心にあった厄介な感情が急に強く疼きだしたのだ。
 なにかがおかしい。自分の心理状態をうまく操れていない。いつもの感覚ではない。最後の任務ということでいつもと勝手が違うのだろうか。
 標的が近づいてくる。いまははっきりと彼女の表情が見てとれる。
 太陽の光に照らされ、彼女は眩しいのか、目を細め笑ったような表情になった。
 三ヶ月前の彼女を同時に思い出す。彼女の手が触れたわき腹の感覚がよみがえってくる。
 世界のあらゆる邪悪なものをなにも知らないような笑顔がタロウの記憶として残っている。それは無垢ないたずらをして逃げているかのようにうまく捉えることができず、疼く胸のなかでさまよっている。
 彼女が心にいる。そしてそれが影となって、タロウの感情を動かしているのだと知った。
 永遠の生という夢が希望ならば、それを邪魔するのが彼女の存在なのだろうか。太陽と影の関係のように両者の関係は正反対でありながら、どちらかがなければ成立しない。永遠の生を欲するゆえに、彼女の存在が心のなかで躍動する。厄介な感情の原因は彼女の存在だった。
 標的が催眠を掛けられる範囲に入ってきた。距離として五メートルほど手前に彼女はいる。タロウはアプローチを開始する。排気量の多い車が横切っていった。その音が耳障りだった。失敗だ。再びアプローチを試みるが、どうも集中ができない。
 するべきことは理解している。ただ実際に行動に移そうとすると、抗うように全身が悲鳴を上げはじめる。息が荒々しくなり、動悸が激しくなり、全身が熱くなる。
 彼女に催眠を掛けることから逃げているのだろうか。いや、そんなはずはあってはならない。死神が人の死を躊躇うことなどあるはずがない。ましてや自身の永遠が懸かっているのだ。必ず成功させなくてはならない。
再び精神を集中し、ターゲットに念を送る。
 彼女はいまタロウの真横を通り過ぎようとしていた。身をずらして、彼女の死角に入った。そのときに視線を彼女から離した。再び視線を巡らせる。
彼女より先に犬の糞が見えた。視界に彼女も入ってきた。危ない。このままでは大変なことになってしまう。咄嗟にタロウは飛び出した。彼女の足に向かって、ヘッドスライングするかのようにジャンプした。
 彼女の足が宙を止まった。
 さくらは足元を見下ろした。さくらの視線には犬の糞に顔を突っ込んだタロウが映ったはずだ。


#10へつづく

「クルイサキ」#10


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?