見出し画像

「クルイサキ」#3

死神 1

 毛を逆立てて、背中をしならせる。威嚇の格好だ。首輪をつけた白色の毛並みの良い猫が、一目散に逃げていく。決して興味本位で近づいてはいけない。纏わりくと死期を早めることになる。
 去っていった猫に忠告の視線で見送ると同時に街灯が点った。街角に設えてあるカーブミラーを見上げ、自分の姿を確認する。
 毛はすっかり汚れてしまって本来の色はわからなくなっている。右の耳は何者かに噛まれてしまったのか欠けてしまい、鮮やかな曲線を描きながら伸びる細い尻尾はストイシズムを漂わせている。無論、飼い主はいない。いますぐ消えてしまったとしても、この世界にまったく影響を及ぼさないだろう、俗離れした野良猫を今回も選んだ。
 つまり、猫を被っている。
 この世界では肉体を手にしないと死神の仕事はできない。この世界の肉体に憑依し、ターゲットに近づき、任務を執行する。任務が完了すれば、借りた体を離れることになり、その際には人目につかないよう配慮している。借りた肉体に再び魂が戻ることはない。猫が死ぬところを見せないと世間で噂されているのはそういうところからきているのかもしれない。
 猫はなにかと都合がいい。動きは俊敏で尾行には適しているし、街中にいても誰も気に留めない。泥まみれの野良猫なら人間たちは関わるのを避けたい一心で足を速め、目を逸らし、遠ざかっていく。
 死神としてこの世界で任務を行う場合は、なにかと都合がいい猫の体に憑依するのが一般的になっている。ただ稀に人間の体に憑依する死神もいると耳にすることもある。人間の複雑な心の構造を気に入り、使用するらしい。人間を使用する場合は人間の体を離れる場合の処理が面倒だったり、人間の特殊な社会生活も行わなくてはいけなくなるので、人間の体に憑依するのは通常は敬遠されている。
 今回指令された死ぬべき運命にある標的の名前は服部、いま十メートル先を歩いている。操り人形のように肩を大きく左右に振り、動きはやけにぎこちない。
 彼はいま自分の意思を持っていない。昨夜、すでに男を掌握することに成功し、彼を操作していた。残る作業は彼の身に臨終の瞬間を訪れさせることだ。彼を電車の前に飛び出させてもいいし、首を吊らしてもいい。催眠が成功さえすれば、死なせる方法には不自由しない。
 この世の自殺といわれる十分の一ほどは、死神の仕業であろう。
 死神はこの世で借りの姿になり、ターゲットに近づく。そしてしばらくのあいだ相手の心に働き掛けていくことで肉体を操れるようになる。そのことを死神の世界では催眠と呼ぶ。相手の相性によって、催眠が成功するまでに費やす時間は異なる。おおよそはひと月ほどだが、よほど相性が良ければニ、三日でうまくいくこともある。相手がなにかしろの事情を抱えていて精神的に追い込まれている状況であれば、一瞬にして意思を掴むこともできる。心に入り込む隙が充分にあるからだ。今回の男は多少手間取ってしまい、すでに三ヶ月を費やしていた。警戒心がかなり強く、掌握するのに時間が掛かってしまった。
 ターゲットにアプローチをすると、その心に触れ、感情などが伝わってくる。感情がある程度理解できれば、催眠は成功しやすくなる。感情の波長に合わせて、アプローチを開始する。相手の気持ちになって、感情の起伏に乗るように、それがコツ。
 短気な性格な人間や、感情の起伏が激しい人間は比較的催眠が成功しやすい。
 今回のターゲットは、なにか後ろめたいことがあるのか、アプローチをする方向から逃げるように、心がさっと隠れてしまう。感情が浮遊し、捉えるのが困難だった。
 彼は心を自分の奥に押し込め、分厚い壁を何枚も設えているように、自らを世間から遠ざけていた。
 それでも、アプローチをつづけた。暗澹なる男の心のなかを進んだ。いまにも消えそうなたいまつだけを頼りに、夜の山中を歩くように心細かった。
そしてようやく催眠を成功させたのだ。
 
 本日中に任務を執行することにした。ターゲットに情けを感じて、何日か泳がせたりすることもあるのだが、今回は予定よりだいぶ遅くなってしまったので、男にはこれから寥々とした場所に導かせてもらうとしよう。
 男は不器用に肩を揺らしながら歩いている。(といっても男を歩かせているのは自分だが)その後を追いながら男に近づいていく。
 向こうからおそらくは女子高生だろう、学生服姿の二人組みがやってきた。どちらも顔が宵闇に紛れて見えにくいが、奇妙に、覆面レスラーのように、目と口が白色で浮き上がっている。二人組みは男を通り過ぎたあと、申し合わせたように振り返って男を嘲笑した「ナニアレーキモイ」「アリエナインダケドー」と、甲高い声が聞こえてきた。おそらく男が正気だったら聞こえるほどの声量であった。その二人組みは男を見ながら口を大きく開け広げ、体が反り返り、大袈裟に手を叩いていた。野蛮で下品な振る舞いであった。
 女子高生たちに対して殺意を抱いた。術は心得ているが、もちろんそんなことはできない。思いだけを胸にしまって女子高生たちを通り過ぎる。もしも、命令が下った人間以外を催眠を使用し殺害してしまえば、死神の世界から追放されてしまう。
 女子高生たちはうす汚い野良猫にも気づいたが、一瞥しただけでまったく意に介さない様子であった。
 この世界から省かれているな、と男の表情を使って苦笑いした。男は不気味度がさらに上がったことであろう。ただでさえ催眠状態の人間の目は死人のように瞳孔が開いているというのに。
 そのとき男が急に立ち止まった。そんな動作は命じていない。なにかにぶつかったのだろうかと男の前を窺う。
 
 男の前には女の人間が立っていた。こちらも制服姿で高校生ほどの年に見える。先ほどの女子高生とは相反して化粧けがない。だけど薄暗いなかで輝くように見えた。
 胸元まで伸びた黒い髪が風に揺られて彼女の顔に纏わりつき、研磨された輪郭を情感的に演出している。全体的に華奢な印象を受けるのだが、なにか一本芯が通っているかのように立つ姿が潔い。無駄なものを一切排除した美しさが彼女にはあった。
 その女は男に話し掛けている。そしてこちらを見た。彼女と視線が合った。
 彼女の目に吸い寄せられ、動くことが許されなかった。それはほんの一瞬だったのかもしれないし、もっと果てしなく長い時間であったのかもしれない。とにかくその時間は、死神の任務を忘れ、人間世界に来ていることも忘れ、猫になっていることも、なにもかもを忘れていた。
 気を取り戻すまで、理性を失っていた。まるで何者かに催眠に掛けられたように、意識を乗っ取られたような気分であった。
 彼女は怪訝そうな表情をした。慌てて近くの茂みに身を隠した。呼吸が乱れていた。切迫感を感じた。まるで体を拝借した猫の魂が体の中心から暴れ出したようだった。自分にはないまったく別の強い感情が沸き立ってくる。 
しばらくのあいだその場で呼吸が落ち着くのを待った。
 それから男を落としているのに気づいた。男が催眠状態から脱していた。
急いで茂みから顔を出した。男はまだその場にいた。男は震えていて、ひどく具合が悪そうであった。催眠状態から逃れた後遺症と判断した。
 男は手元になにかを持っていて、それと彼女を見比べていた。男はなにか言って、彼女はそれに答えるように口を動かした。
 男の表情がさらに色を失っていった。膝が崩れ、その勢いのまま頭を下げた。
 後遺症ではない。男は自分の感情が操作できず震えているのだ。
彼女はなにが起きているのか理解できてはいない様子だ。周囲をきょろきょろと見回すが、誰もいなかった。彼女は早足で逃げていった。男は彼女が去ったあとも、長い時間、受ける対象のない謝罪をつづけていた。
 通り過ぎる人が男に声を掛けても、肩を叩いても男は立ち上がることはなかった。そのあいだに男に再度催眠を試みたが、硬い壁に跳ね返されるようで、思うようにうまく入り込めない。
 そうしているあいだに男は自らの意思で立ち上がった。なにか覚悟を決めた表情に見えた。歯をくいしばり、涙を堪えるように眉間に皺を寄せている。
 もう一度男を催眠に掛けなければいけない。男は歩き出した。すかさず後を追った。
 男の足取りは頼りなく、いまにも倒れてしまいそうに見えた。これまで数回、道行く人の肩にぶつかっていた。そのたびに男から発せられる「ごめんなさい」という声は、まるでまったく他の者に対しての謝罪のようであった。
 
 降りた遮断機の前で男は立ち止まった。電車の通過を待つ男の背中は、死を定められた独特の負のオーラが漂っていた。無理もないだろう、現にたったいま死神に纏わりつかれているのだから。
 踏み切りの前で、数人の人間たちがいた。電信柱の影に身を隠し、電車が通り過ぎるのを待つ男の心に、再度アプローチを開始する。
 心に入り込もうとする瞬間に、人間は無意識に防衛本能が働き、進入を拒む。反発する心に触れ、その感触でその人間のそのときの感情や自我を垣間見ることができる。いまの男の心の感触は、まるで煙のように手ごたえを感じなかった。さっきまでの感触とはだいぶ違う。さっきは重厚な壁が心を何重にして守っていたのに対し、いまは濃い霧のように侵略性の高い気体が襲ってくる。攻撃的な心境に移り変わっていた。なにか見限ったと思える潔い強さが立ちこめている。
 さらにアプローチを仕掛ける。
 男の人格はさらに複雑で、核を捕えるには困難な構造だった。一度催眠を諦め、引き返そうとしたとき、風を感じた。
 映像が見えた。男の過去が来る。

 男は車を運転していた。突然、ハンドルが180度回転した。ブレーキが見えたが、左足はそれを踏むことを躊躇っていた。
 反対車線に進入し、間髪入れず車が向かってきた。そこから映像はスローになる。
 運転していた相手の男の驚きの表情が飛び込んできた。それから相手の車の運転席側の扉に、赤いボンネットが埋まっていった。衝突を認識した。視界が揺れ、相手の男が助手席側のドアまで飛ばされた。視線が合った。顔が赤く染まっていき、噴き出した血がおぞましい。回り出した映像は、短い間隔で彼の悲劇を映し出し、その合間には言い訳を探すように視点が定まらず、映像はぶれる。最後はその彼と再び視線が合って、映像は暗転した。
 男の後悔は強かった。心に刻み込まれた傷跡はまだ生々しく、一切の免罪をも含んでいなかった。感情が伝わることはよくあるが、映像までもが伝わってくることは滅多にない。男はそれほどまでに、なにかに追いつめられていたのだろうか。
 恐ろしい。人間の心を怖いと思った。男の怨念かそれとも執念か、いや、懺悔なのか。とにかく強い黒が落ちてくる。
 深い後悔が悲しみを飲み込んでしまって、男はすっかりうろたえてしまっている。天から空が落ちてくるように男には逃げ場がなかった。
 男は遮断機をくぐった。悲鳴と電車の通過する音が重なって、耳に届いた。男は自らの意思で命を断ったのだと理解した。


#4へつづく

「クルイサキ」#4

死神の用語

催眠
 ターゲットの心を支配し肉体を操ることができている状態。その状態になるまでは通常ひと月ほどの期間を要するが、ターゲットの心理状態が不安定であれば、それよりも短い期間で催眠状態に陥ることもある。

憑依 死神がターゲットに近づき催眠を掛けるため、人間界で使用する借りの姿に乗り移ること。憑依した肉体は使い捨てで二度と魂が戻ることはない。通常は野良猫を選択するが、人間に憑依する悪趣味な死神もいる。
憑依した肉体のまま死ぬと死神も一緒に死んでしまう。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?