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「クルイサキ」#10

さくら 5
 
 数日間降りつづいた雨は、アスファルトをひっそりと濡らしただけで、教訓を諭すこともなく、憂鬱さを増幅させて空からいなくなった。
 引力に引っ張られた長い雨の粒は、糸の切れたヨーヨーのように次々と地面に打ちつけられて、まだ取り残されている。行き場を失った雨は、身を寄せ合い所々に水溜りを形成していて、その姿は道行く人に平謝りをしているかのように見えないこともない。それでも、道を歩く人々はというと、とっくに空との付き合い方を心得ていて、地面に残る水溜りには目を向けようとはしない。
 雨が降れば傘を差し、雪が積もれば雪をかく。人々はうまい具合に知恵をつけ、空と付き合っている。
 ただ、さくらは空との関係をどうしても割り切ることができないでいた。
皮肉にも雨を止めた空は、こちらから見上げることをしない限りは、上空からそっと見守るだけで、地上に自らの存在を知らせようとはしない。濃い霧を覆い、人々から隠れているようだ。
 さくらは自転車を押しながら、校門から出ると、空に向けていた視線を校舎へと移した。四階にある自分のクラスを見上げた。そこでは織田が絵を描いているはずだ。だが、ここからではその姿を確認することができなかった。
 織田にパリに留学することを告げられて以来、さくらは教室には残らず、終礼が終わると彼から逃げるようにして、クラスから飛び出るようになった。
 そのあいだ織田とは気まずい挨拶程度の会話しかしていない。彼に聞きたいことはたくさんあった。どうでもいいことをたくさん話したかった。彼の声をもっと聞きたかった。目まぐるしく変わる彼の表情や、絵を描く背中をずっと見ていたかった。彼の声の届くところに身を置いて、息遣いの聞こえる距離で、息継ぎを何度もするくらいの長い会話が、いつまでもつづくことを夢見ていた。
 織田はいまどんな表情をしてこの空を眺めているのだろうか。彼は地上でうずくまるように小さくなったさくらを置き去りにして、どんよりと停滞する雲を飛び越え、一人超越した場所で、空の居心地を楽しんでいるのだろう。彼の目は一点の疑いもなく、彼の空の視界は快晴だ。眺望すれば見事にパリにまで目が届くだろう。いま二人はまったく違う次元にいる。
 彼はその空間で、殺伐としていて忙しくする雲の下の住人になど気にもせず、授かった翼で飛んでいる。織田はさくらからは見ることのできないはるか高いところで生きている。
 冷たい雨でも、怒った雷鳴でもいい。そこからさくらにどんな感情でもいいから注いでくれれば、彼の存在を確認できる。けれど、彼からはなにも発してこない。微かな感情でも感じることができれば、さくらは充分に体を温めることができるというのに。
 明日から学校は連休になる。しばらくのあいだ彼を遠くから見ることもできなくなってしまう。
 さくらは懸かった懸かった無表情の空を見る。
 いまは雲の動きも確認できず、空模様はなにも告げようとはしない。ただ、肌に伝わる秋冷の背後に、冬がそこまできている気配はあった。

 学校が休みのときはさくらが家事をすることに祖母と約束をしている。買い物に行こうとさくらは財布を手にし、自転車に乗った。
 スーパーマーケットまでの途中で小学校のある通りになる。さくらは自転車を降り、財布に忍ばせてある父の写真を見た。その写真の父はは満面の笑みを浮かべている。さくらのお気に入りの一枚だ。
 身近であったはずの父は彼女の記憶にしかもういない。イケメンとはどう贔屓目で見ても思えないけれど、さくらを見る特別に優しい目が本当に大好きで、独占したくて。だからかまってほしくて、もっと見てほしくて。だけど、いなくなってしまって。
 父は父親の役割を自ら放棄したわけではない。そんなの、わかりきっている。だからこうしてさくらの側にいて、いつまでも励ます機会を与えてやっているのだ。
 父の笑顔を見ていると、さくらはずっと生きていけるような気にもなれる。この歩道を渡るときはおまじないのように、父にお祈りをする。
 さくらの通った小学校が見えてきた。雨上がりの湿ったにおいと、校庭に点在した水溜りとが、幼いころの記憶を刺激させた。雨上がりの肌寒い、こんな日だった。この歩道を通るたび、その記憶はよみがえってくる。雨がつづく時期には膝の古傷も一緒になって疼きだす。
 一生忘れることのない記憶は、さくらが小学校二年生のときに刻まれた。
さくらは父から預かったお金をポケットにしまって、スーパーマーケットに向かっていた。朝から雨が降っていて、長雨の様相を呈していた。買ってもらったばかりの赤い傘を差しながら歩くのが楽しいときで、さくらは父にお使いを自らせがんだ。父がやれやれと呟きながら財布を広げた。父はカップのアイスクリームを二個頼んだ。父は五百円硬貨を渡して「アイスが溶けないように早く帰ってくるんだよ」と言った。さくらはおどけて父にありがとうのキスをした。
 スーパーマーケットで冷凍食品のコーナーに行き、バニラのアイスを二個手に取った。手にしたアイスはよく冷えていて、急いでレジへと向かった。
 家に帰る途中で、雨が上がった。雲の切れ間から光が射し込み、さくらは目を細めた。それから傘を畳み、父の注意通りに早く帰ろうと走り出した。角を曲がるのも絶妙な重心移動でスピードを落とさなかった。ポケットの小銭が忙しく鳴らす音に急き立てられながら、さくらは父とアイスを食べたいという一心で、全速力で走った。
 途中で小学校の校庭に入った。そのほうが近道だった。校庭の水溜りを飛び越え、足がとられないようにぬかるんだ土を、力を込めて蹴った。
 校庭を横切って、校門から飛び出た。勢い余って歩道から車道へ体が出た。方向を変えようとしたとき、車のブレーキ音が耳を聾した。少し遅れて衝撃が全身を貫いた。父に痛みを訴えながら、意識を失った。
 さくらが再び目覚めると手足が包帯で縛られていて、体の自由が利かなくなっていた。祖母が横で座っていた。さくらが動いたのに気づくと、手を握ってきた。祖母の握力は生卵を扱うように慎重で、温かさだけが手のひらから伝わってきた。
「よく生きてくれた」祖母は目に涙を溜めていた。まださくらは大人の涙に慣れておらず、微かな戸惑いを覚えた。
「おばあちゃん、私、なにかあったの?」
「大したことはない。さくらの命があればそれでええ」
「お父さんは?」父の姿がない。さくらがこんな状態でいるというのにどこにいるのだ。
「渡は……」さくらの前ではいつも祖母はお父さんと呼ぶ。それが父の名前の渡と呼んだ。手の届くことのない遥かに遠い場所から息子を探すように、祖母のしわがれた声にはどうすることもできない迷いが含まれていた。
祖母は頭を垂れた。嗚咽が聞こえてきた。祖母の膝の上に涙が何粒も降った。そのまま祖母は言葉を発することはなかった。
 父はさくらが事故に遭ったと聞きつけ、病院に向かう途中に反対車線から飛び出してきた車と正面衝突した。相手は泥酔状態で車を運転できる状態ではなかったらしい。父の車はスクラップされたかのようにひどい状態であった。父は即死だった。それに対して相手は服部という名前で、命に問題はなかったという。いまだにそれらのさくらに伝えられた情報は何の感慨ももたらしはしない。たださくらを見舞う途中で事故に遭ったということだけが、いまだにさくらの胸を窮屈にさせている。
 自惚れではなく、父はさくらを大切に育ててくれた。生まれた直後に亡くなった母親の分まで、愛情を注いでくれた。ときには、母親がいないことを父に愚痴いたこともあったが、そのことに対して寂しいと感じたことはなかった。
 父はさくらが事故と聞いて、どういう反応を示したのだろう。あまりにも慌てて、車を走らせたのだろうか。さくらに買い物に行かせたことを後悔したのだろうか。それとも頭のなかは真っ白だったのだろうか。父の感情を思い巡らせても、もう答えを知る術はない。
 父と一緒に食べるはずだったアイスは溶けてなくなってしまった。代わりにさくらを襲った悲壮な記憶はずっと溶けずに心の深いところに居つづけている。さくらの帰りを待っている父の笑顔がいまでもそこにあって、ずっと約束を果たせずにいることが、なによりつらい。

 この歩道を歩いていると父が隣にいる気がする。事故を起こしたあの日さくらは薄れていく意識のなかで父の助けを待っていた。父は必ず来てくれると信じていた。だから、ここには父のにおいがする。
息を 大きく吸い込んだ。父のにおいと混じって異臭が足元からした。咄嗟に足を止めた。見下ろすと犬の糞を発見したと同時に猫が頭から突っ込んできた。猫は惨劇に見舞われていた。
 助けを請うような視線を寄越してきたのはタロウだった。


#11へつづく

「クルイサキ」#11

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「クルイサキ」#1 序章

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