見出し画像

「花束みたいな恋をした」〜理想と現実の取捨選択が恋愛の行方を運命づける〜


美しかった

これが映画を見終えた僕の一番の感想だった。

映画を観る前に友人から、「別れた元カノを思い出す悲しい話だ」「長い間恋人がいた人なら共感できるが恋人もろくにいなかったお前にとっちゃ、きっとつまらん映画だ」と聞かされていた僕は自分の抱いた感想のズレが自分の感性の欠陥だと認めたくなかった故、後日再度一人で映画館に足を運んだ。(結局3回観た)

しかし今度も涙が溢れそうになる手前まで何か込み上げるものを感じたが、やはり最も強く感じるのは「美しい」という思いであって、「悲しい」と言うものではなかった。

何がこの物語を美しくしたらしめるのか。

・現在➡️過去➡️現在 この流れがとても効果的に使われている
・「物」や「場所」に仮託された二人の関係性
・別視点での独白や掛け合い


現在➡️過去➡️現在

2020年、絹と麦はすでに別れており、それぞれの彼氏彼女とのデート中に二人が偶然にも運命的な出会いを果たすシーンから始まり、二人の出会いから別れが時系列に沿って描写され、最後にまた2020年のシーンへと回帰し、爽やかな別れと美しい小さな奇跡で幕を閉じるという構成になっている。
この構成がこの物語において、最も適切だと最後のシーンで感じさせられた。


「物」や「場所」に仮託された二人の関係性

この物語の中では絹と麦の関係性が間接的な形でも多く描写されている。

一つ目は彼らの靴だ。
出会った二人の靴は揃って白のスニーカーで、恋を感じさせるような小さな運命を演出している。
しかしその後二人の靴はスニーカーではなく、ともに仕事用の黒の靴となる。
そのことが二人の関係における不吉な予感を物語内に漂わせるのだ。

二つ目はイヤホンだ。
片耳イヤホンをしていた頃の二人は趣味趣向が両者ともに繋がりあってていた。(共通していた)
だが、楽曲のミキシング技術についての知識を入れられた二人はクリスマスプレゼントでBluetoothイヤホンを交換しあい(図らずも)Bluetoothイヤホンを使うようになる。
そしてその後二人の関係は悪化し麦はBluetoothイヤホンを防音に使うようになる。二人を繋いでいたイヤホンが互いの思いの断裂を予感させるものとなったのだ。

三つ目は絹のネイルだ。
これは気づかなかったのだが、映画館で隣の席だった人に教えてもらった。
絹のネイルが青から赤へと信号の変化の通りに時の流れに沿って変化していくというのだ。ネイルだけでなく絹はミイラ展(初デート)の頃は青色基調の服を着ていた(なんなら麦も)が、最後の別れ話のシーンでは真っ赤な服を身に纏っている。

四つ目はファミレスの席だ。
仲が良かった頃は決まって座っていた「その」席が別れ話を切り出すために向かった際には空いておらず、「その」席が空いていないことに二人して戸惑ってしまうシーンはとても印象的だ。
別れ話の途中、その席で昔の麦と絹のように惹かれあっていく見知らぬ男女はまさに麦と絹の「席」をとったのだろう。


別視点での独白や掛け合い

ある一つの出来事に対して麦視点からの感想と絹視点からの感想が独白形式で語られる場面がこの映画では多く存在する。

例えば二人が出会った日、麦の家での一連の出来事に対して、二人が抱いた各々の感想を小説のように独白するシーンがあるが、それはとても美しかった。
また麦が絹にやんわりと結婚を提案するシーンでもこの形態が用いられているが両者の見解の違いを観客に対して浮き彫りにすることに成功している。
そして最も注目したいのが冒頭のカフェのシーンと最後の友人の結婚式のシーンにおける、この手法のあり方だ。これらのシーンでは二人の認識がピッタリと一致しており心揺さぶられる。


大きく分けてこの三つがこの物語を美しくしたらしめていることだろう。

また、この美しさの向かう先は恋愛における本質の一つへとそのどれもが繋がっているように思える。

それは…







恋愛の行く末は
「理想と現実の取捨選択を両者ともにうまく行なっていけるか」にかかっている


ということだ。


ドラマチックな出会い
お互いサブカル好きの変わり者
スニーカーが奇跡的に同じ
デートで図らずもペアルック青コーデ
クリスマスプレゼントが奇跡的に同じ

これだけのことがあったら僕なら確実に運命を感じ、運命の人で間違いないと信じて疑わないし別れることなど尚更想像できないだろう。

僕は女の子とライトアップを二人で見に行った際、会場の一角で行われていた音楽イベントにも行ってみたところ、大勢の人混みに飲まれた。するとその時一緒に来ていた女の子が僕の袖を掴んで「離れちゃいけないから」と可愛く呟いた。僕は胸がぎゅっとなって、少しその子のことを好きになった。しかし、なんと彼女が僕の袖を掴むや否や音楽イベントは終わり、ひとけがいっきに無くなり、「離れちゃいけないから」と言っていた彼女は気まずそうに僕の袖から手を離さなきゃいけなくなった。

この経験から僕は悪い方での運命は存在すると強く信じています笑笑


さらにさらに(気を取り直して)

二人はおまけに感動的な形での再会も果たしており、ストリートビューにも載ったのだ。


これほどかというまで奇跡が詰め込まれた二人も四年で別れた。
二人が違っていたのは理想と現実の取捨選択ただそれだけなのだ。

麦は理想を捨てながらも残された理想のために現実に真摯に向き合おうとするのに対し、絹は現実に向き合うのではなく理想に向き合うことだけに固執し、理想を下げることを拒む。

恋愛はナマモノだから賞味期限がある。
脳科学的に人間の異性に対する恋愛感情は3年でなくなるものとされている。
絹と麦も例外ではなく3年を経過すると徐々にすれ違い、「どうでも良くなった」となってしまった。
麦は「ずっと同じだけ好きでいるなんて無理だ」とわかりながらも絹との結婚を望む。
だが絹は付き合い始めた頃から「始まりは終わりの始まり」「恋愛はパーティーのようにいつか終わる」と知りながらも心の中で数%に満たない恋愛で私は生き残るとこっそりとではあるが意気込んでいた。
要は絹は恋愛感情がなくなったら別れることを付き合い始めた頃から信念として持っていたのだ。出会ったばかりの奇跡の連続の中に、実はどうしようもない「違い」がすでに存在していたのだ。


おわりに

冒頭で僕はこの映画を「美しい」と表現した。
そしてこの映画を美しくしたらしめる要因を自分なりに書かせていただいた。
そして今こうしてここまで書きつらねてきて気づいたことがある。

僕の抱いた「美しい」という感情の対象は映画だけでなく「恋愛」に対しても向いていたということだ。
確かに恋愛の厳しさをこの映画からは教えられたが、それと同時に別れてしまっても当時の恋愛は確かに自分の財産となり残り続けることも教えられた。

楽しかったことだけを思い出にして大事にしまうことができるのだ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?