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ミハ・グッドマン博士「キャッチ67」についての講義より(まとめ)  テルアビブ大学にて                        

 「キャッチ67」は、イスラエル・アラブ紛争についての書籍ではない。イスラエル・アラブ紛争に関するイスラエル国内の言論対立に対するイスラエル人のアプローチを描いた書籍である。

 私がまず最初に試みたのは、言論対立へのアプローチを心理哲学的な観点から分析することである。右派の思想的背景には偉大な思想家としてのゼエヴ・ジャボティンスキーがいる。入植者の背景にはラヴ・クックがいる。左派の思想的背景にはベングリオンやベレル・カッツネルソンがいる。単に右派や左派の言論対立を描くのではなく、その背後に遡る思想的背景を分析しようとした。
 
 次に私が試みたことは、それぞれの立場に耳を傾けるということである。それぞれの立場に共感をもとうとしたのである。それは他の言う事に部分的にでも納得することである。共感をもって耳を傾けるということは、それぞれのサイドをいらだたせることでもあった。
 
 67年は、アラブにとってそれまで抱いていた夢との別れの年だった。一方、我々イスラエルにとっては潜在的にあった複数の夢が出現した年だった。そして夢と夢が衝突しイスラエル社会に断片となって散らばっていった。その夢は六日戦争の後学んだものではない。六日戦争後に勢いを増していったものだ。


左派の夢

 夢の一つは、「平和」とイスラエル人が呼んでいるものである。これには民族の集団的心理が背景にある。例えば、ラビ・イェフダ・ハレヴィの「クザリの書」は、ある伝説に基づいた本である。当時の世界の果てにハザールという王国があった。この王国は長くユダヤ教を崇拝しており、ついには王国がユダヤ教に改宗してしまった。この話の興味深いことは、当時のユダヤ人がこの伝説を信じたことである。世界の果てに、こんなにもユダヤ教を崇拝し愛してくれる国があるという話は当時のユダヤ人を非常に喜ばせた。
 
 若者世代の心理的現象に「空想上の友達」というのがある。空想上の友人と会話し遊んだりする。これは現実の友達がいない人に特有の現象である。孤独な人が空想上の友を作り出す。つまり孤独だった中世のユダヤ人は「空想上の友」を作り出したのである。自分たちを愛してくれる友を欲したのである。ユダヤ人に潜在的な民族の願いがあるなら、それは自分たちを愛してくれることであり、世界の諸民族の一員となることであった。

 この民族的願いは近代になって政治思想として表現されるようになった。それがテオドール・ヘルツェルのシオニズムである。ヘルツェルにとって、反ユダヤ主義・ユダヤ人問題を終わらせ、ユダヤ人が人類の一員となる手段がシオニズムだったのである。ヘルツェルにとってシオニズムとは、ユダヤ人を反ユダヤ主義から守る国を建てることではなかった。反ユダヤ主義から守ってれる国家ではなく、反ユダヤ主義を滅する国家を建設することが彼ヘルツェルのシオニズムだった。

 19世紀のヨーロッパの思想家たちは民族を「家族」として捉えていた。諸民族の家族である。何がユダヤ人の問題なのか?それはユダヤ人が民族として政治的に組織されていないことである。それゆえに我々ユダヤ人は諸民族の家族に受け入れてもらえないのである。シオニズムは我々を政治的に組織するもので、我々を世界の諸民族の一員と認めさせるものである。我々が嫌われているのは国家をもたないからである。国家を持てば皆が我々を愛してくれる。さて、このヘルツェルの思いは達成されたのであろうか?


右派の夢

 シオニズムについて別の夢もある。ユダヤ魂の深いところにあるものを呼び覚ます夢である。これは記憶と場所の関係性に関わる話である。 

 どういうことか?

 一般的に共通認識として、記憶というものは場所と深く関っている。昔興味深い体験をした場所に、何年も経ってから訪れると、その体験の記憶が突然蘇ったりする。
 
 例えば金婚式を迎えた夫婦が、失われてしまったことを回復するために、最初に行ったデートの場所を訪れるとする。自分たちが行った町、その町の公園、そして公園のベンチ。徐々にデジャヴのように記憶が蘇る。そのベンチは二人が初めて一緒に座ったベンチで、初めていろいろなことを話し、あるいは初めてキスをしたことなど、様々な思い出が蘇ってくる。他人にとってはただのベンチだが、二人にとっては特別な記憶が詰まっているのである。このベンチに数十年ぶりに座ると、記憶とともに様々な感情も呼び起こされる。ただ単なる物質であるものが、そこで特別な体験をした人にとっては、記憶が詰まった特別なベンチなのである。

 ユダヤ人にとって、イスラエルの地は、ユダヤ人の民族的記憶が蓄積された場所である。金婚式夫婦にとってのベンチなのである。それは聖書である。シェケム、ヘブロンは父祖たちの記憶を蘇らせるのである。シオニズムとはユダヤ人の民族的記憶の詰まった場所へ帰り、記憶とともに民族への想いが呼び起こされユダヤ民族を復活させることなのである。ラヴ・クックの宗教的シオニズムはその最も代表的なものである。

 ヘルツェルにとってのシオニズムとは、ユダヤ人に対する敵対心や憎しみをなくしユダヤ人を人類の一員となる夢であり、ラヴ・クックにとってのシオニズムは、ユダヤ人を故郷の地、聖書の地に帰す夢であった。これらの夢は建国以降1967年の六日戦争までは政治的に特に重要な意味をもたない考え方だった。しかし六日戦争で、これらの夢が再び意味を帯びるようになり頭をもたげ対立するようになった。


六日戦争後の左右の夢

 ヘルツェルの夢を受け継いだ若者たちは、六日戦争が終わって周囲を見ると、風景が変わっていた。シリアが欲するゴラン高原が自分たちのものとなっている。ヨルダンが欲するユダ・サマリア地方、エジプトが欲するシナイ半島が自分たちのものになっている。若者たちは何を考えたか?それらの領地を和平合意の条件に使おうと考えた。国連決議242に見られるように、それらの領地から撤退する代わりにアラブ諸国との平和を得てヘルツェルの夢を達成しようとしたのである。

 ラヴ・クックの夢を受け継いだ若者たちも、六日戦争後に周囲を見ると、聖書の地が自分たちのものとなっていた。神殿の丘が自分たちのものとなっていたのである。六日戦争はイスラエルの大きさを聖書の大きさにした奇跡だった。アラブ諸国は領地を失いイスラエルはそれらを手中にした。全く逆の関係になったのである。
 
 この戦争でユダヤ人は戦うことを熟知していると実感した。たった3時間でエジプト空軍を撃破し、6日間で勝利したのである。アメリカのユダヤ人学校で育った私の父が話してくれたことがある。六日戦争までは、アメリカの反ユダヤ主義者たちは「Hit the Jews」と言っていた。しかし6日戦争後は、彼らは「Hit like the Jrews」と言うようになった、と。

 突然ユダヤ人は6日間でアラブ諸国を打ち破り領土を3倍にした。ただ単に領土を3倍にしただけではない。これは非常に象徴的なことでもある。6日間で神様が天地創造の業を終えられたように、6日間で聖書の世界を自分たちの手にして、再び新しく創造されたのである。イスラエル民族は今我々の手中にある聖書の地に帰り、自分たちの民族的記憶を蘇らせなければならない。ラヴ・クックの夢を継承する若者たちはそう考えたのである。そして六日戦争後に再び目覚めたこれら2つの夢は衝突していったのである。


第一次インティファーダにおける右派の夢の粉砕

 友人のヨッスィー・クライン=ハレヴィが著書「夢見る者のように」の中で、第一次インティファーダと第二次インティファーダに関する興味深い考察を書いている。この2つのインティファーダは、私が説明したような2つの考え方が歴史的現実に現れた出来事だった。

 第一次インティファーダでは、多くの若者がユダヤ人の感覚として、あることに気づいた。
 自分たちが従軍しているのは、自らの民を守るためであり、他民族を支配するためではない。我々は兵士であり、支配者ではない。六日戦争では、我々はダビデでありアラブがゴリアテだった。しかし第一次インティファーダでは六日戦争の結果自分たちがゴリアテになっていた。

 個人的な体験として。私はトゥルカレムをパトロールしていた。当時、壁にスプレーでイタズラ書きをすることは禁じられていた。スプレーでPLOなどの扇動の言葉を書くことは、我々にとってはテロが増大する危険なことであったからだ。機甲軍のジープでパトロール中、スプレーを手にした子供がいた。私の上官と私とで挟み撃ちをして、その子供を捕まえた。そしてその子供に「誰にスプレーをもらったのか」と尋ねた。帰りのジープの中で上官は叫んだ。「What the hell are we doing here!」子供の後を追いかけてスプレーの出処を探るなんて! 
 
 第一次インティファーダでは多くの若いイスラエル兵が同じことを思った。「俺たちはいったい何をしているんだ?」と。我々がいるこの土地の中には、我々の民族的記憶が詰まっているかもしれない。しかしこの土地の上には、他の民族が生活しているのだ。 

 数字にも表れている。第一次インティファーダが始まる前は、パレスチナ国家の建設に賛成するイスラエル人は20%にも満たなかった。第一次インティファーダが終わるころには60%以上のイスラエル人がパレスチナ国家の建設に賛成した。多くの記憶が詰まっているはずの土地には他の民族がいる。ロマンチックな思い出のベンチには他の人が座っている。第一次インティファーダではラヴ・クックの夢が粉砕された。


第ニ次インティファーダにおける左派の夢の粉砕

 第二次インティファーダでは逆にヘルツェルの夢が粉砕されたのである。インティファーダなどの事件で大切なことは、何が起こったいうことより、多くのイスラエル人がどのような体験をしたかということである。第二次インティファーダが、平和神話にとって非常に破壊的だったのは、自爆テロが主流だったからある。テロとは、人口のごく僅かな部分に物理的な被害を与えることによって、人口全体に心理的なダメージを与えることである。

 2001年がどのような状態だったか、覚えているだろうか?皆自分の家族が今どこにいるのか、どのバスに乗っているのか心配だっただろう。そのような状況で、誰が他国にいる自分の親類や家族ががイスラエルにいてほしいと思うだろうか。当時イスラエルは恐怖が充満していた世界だった。この自爆テロによる死亡者数は、統計によると1100人以上だった。

 しかし、第二次インティファーダが心理的なダメージを与えたのは、破壊や恐怖以上に時間的なタイミングだったのである。第二次インティファーダが起こったのは、2000年のキャンプ・デービッド会議の2ヶ月後だったのである。当時クリントンの仲介で、エフード・バラク首相がヤセル・アラファト議長に、ガザ回廊および殆どの西岸地区からの撤退、エルサレムの分割、神殿の丘の妥協、という驚くべき提案をしたのである。クリントン大統領は後から「信じられなかった」と言ったほどの提案だった。ところが、より信じられないのは、アラファトの反応だった。彼は対案も出さずにパラクの提案を拒否したのである。

 キャンプデーヴィッドの後イスラエルは何を体験したのか?これは軍情報部と公安で、アラファトが主導したのか、後から加わったのか議論があるが、いずれにせよ第二次インティファーダが起こって、イスラエル人は「この暴力は我々の占領が原因である」と考えた。なぜなら、占領を終わらす大きなステップとなる提案をして2ヶ月後に、インティファーダが起こったからである。第二次インティファーダが起こったタイミングは、イスラエルの左派陣営にとって決定的な打撃だった。「シール・ラシャローム」(平和のための歌)の作詞家、ヤアコヴ・ロットブリットは、第二次インティファーダの後のインタビューで「平和を信じることを止めた」と言っている。

シオニズムにおける矛盾

 六日戦争の結果イスラエル人には2つの夢、「平和」と「大イスラエル」が目覚めた。しかし2つのインティファーダで、これらの夢は消えていった。もちろん今も強く2つの夢を持ち続けている人は両サイドにいる。しかし多くのイスラエル人はどうか。第一次インティファーダで我々はパレスチナ人を支配したくないしできないと学んだ。第二次インティファーダでは我々はパレスチナ人を信用できるか分からないと学んだ。私たちは西岸地区から出なければならないが、出ることができない。

 シオニズムとは、一つは独立宣言で定義されているように「自己決定権」である。すべての民族に自分で自分を治める権利がある。自分自身が主権者となる権利である。この原則に従ってバルフォア宣言が出され、この原則に従ってユダヤ人は集められてきたのである。ならば他民族を治めるシオニズムとは何か?シオニズムが民族自決権から生まれたのなら、他民族の自決権を奪い「占領」という状態にあるシオニズムは自己矛盾に陥っているのではないのか。つまり西岸地区から出ていくことが本当の姿のシオニズムなのである。

 しかしもう一方で、シオニズムには別の定義がある。民族のイスラエルの地への帰還である。ベツレヘムやシケム、エルサレム以上のシオニズムはないのである。この定義によると、西岸地区に留まることが最大のシオニズムなのである。西岸地区から出ないことが本当のシオニズムの姿なのである。


結論

 私の書籍「キャッチ67」は、ユダヤ人の観点、シオニズムの観点、道徳的観点、生存的観点の4つの主張が書かれている。

 イスラエル人の多くは生存的観点に関心をいだいている。もし西岸地区に残るならイスラエルには未来はない。シオニズムに未来はない。なぜか?我々は外交的に孤立し、同時に人種的対立と戦わないといけない。より深刻なのは人口統計問題である。我々は人数的に多数派になることはできない。つまり少数派のユダヤ人がアラブ人を支配することになる。外からは「アパルトヘイト国家」として見られ、同時に「ユダヤ人国家」としては見られないのである。西岸地区に残るということは大問題なのだ。

 では西岸地区から出ると、何が起こるのか。以前は、右派はパレスチナ国家ができたら、他のアラブ諸国と共にパレスチナ国家が、我々にとって強大な脅威となると考えていた。しかしアラブの春以降、状況は変わった。強く安定していたアラブ諸国が弱体化し不安定になった。つまりアラブの春のような混乱に対処することができなかったのである。もしパレスチナのような弱い自治区にアラブの春のようなことが起こったら、パレスチナ自治政府は耐えうるのだろうか?イスラエルにとって、最も危険に晒されるのは西岸地区の側のイスラエルの海岸地方であり、我々の生存権は脅かされることになる。それゆえ西岸地区から出ることはできないのである。

 左派は人口統計的に正しく、右派は地政学的に正しい。では、どうすべきか?大きな問題である。多くのイスラエル人はジレンマに陥る。このジレンマを私は「キャッチ67」と名付けた。これは「キャッチ=22」という本のタイトルにかけて名付けた。キャッチ=22では、気が狂ったものは申請すれば除隊できるが、自分を気が狂ったと認識できる者は気が狂ったと認められない。除隊したくでもできないジレンマなどが描かれている。このジレンマの状態が「キャッチ、罠」である。問題を解決する唯一の方法が、問題を深刻化させる。この不条理な状況に陥っているのは今のイスラエルである。西岸地区を占領するかしないか。一つの解決法があってもそれが我々を危険に晒す。もちろん「問題はない。解決策はある」と主張する人々もいる。しかし双方の主張を否定しない人は、キャッチの中にいる。これが「キャッチ67」である。


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