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精神的ソーシャルディスタンス

オンラインイベントとの距離

オンライントークイベントに閲覧者として参加した2月。
2時間を予定していたイベントは、回線接続の不具合などで結局倍以上の時間をかけて終了した。
ポジティブに「初めてだからしょうがないよね!」と語る登壇者を見ながら、「それって参加費を払ってるこちらから言うことなんじゃない?」と思ってしまった性格の悪いわたし。
その後すっかり「オンラインイベント」から遠ざかってしまった。
神奈川を離れたわたしにとって、「有意義」な場所であるはずなのに。

普段参加しない飲み会に、オンラインだからといって誘われるわけでもなし。
1対1で仕事をし続けているわたしに、頻繁なZOOM会議があるわけでもなし。

また間違えた

「仕事の状況どうですか?」と聞かれたグループメッセで「イベントなくなって減収してます」「ヤバイです」との声が上がる中、当時ほとんど状況が変わらなかったわたしは「これまでもリモートワーカーだし、仕事量もほぼ変わらないです」と言ってしまった。
グループのリーダー的な方から「それはよかったですね」と返信があった後、そのグループはもう誰も発言しなくなってしまった。

しまった。また間違えた。
こんなときは「今はまだ影響ないけど、きっとこれから大変になると思います」って言わないといけないんだった。
また間違えてしまってひとつの小さな居場所を失った。こんなことばかりしているから協調性がないって言われるんだ。
その夜、少しだけふとんをかぶって泣いた。

切ない焦燥感

これまで積極的に社会と断絶し続けたツケがきたのかもしれない、と一瞬淋しくなっては、この淋しさを選んだのは自分だ、と再認識する。

いろんな「チーム」が発足しているのを目にするたびに襲われる、少しだけの羨ましさと焦燥感。

わたしが独立という道にいるのは、選んだからじゃなく協調性がなさすぎて社会からこぼれ落ちてしまった結果だ、たぶん。
決してポジティブではない。めちゃくちゃネガティブな「独立」だ。

「チーム」を目にしたときの焦りは、SNSで見かけるキラキラにやられるヤツに似ている。隣の芝生は青く、いつだって欲しくなる。
でもいわゆる「チーム」に属せなかったわたしだからこそ、今こうしているんだった。


一日に何度もコロナ関連のニュースをシェアする友人の投稿を見ては、不安になる気持ち。
誰かにとっての「正しさ」に、別の誰かが不必要に傷つくこと。
なんだか自分にとっても他人にとってもいろいろありすぎて、こんな状況で自分ひとり大丈夫でいること以上に、何もできなくなってしまった。

まとまった文章を書けなかったり、読んでも読んだ端からぼろぼろ溢れて何が書いてあるのか理解できなくなる感覚は、数年前に鬱とパニック障害で通院していた時に感じていた感覚だ。
こんなことを、考えてはいてもまとまって「発信」する力がわかなかったんだけど、やっとある程度長い文章を書く気力が戻ってきた。

本能的にあのときの自分に戻らないために、SNSと距離を取り、自分の状態を責めないことを決めたんだと思う。それはただ偉かったこととして褒めたいと思う。

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