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#迷い #選択 #決断

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迷える子羊。
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#人生観

保守的でいるために、挑戦し続ける

「10年後、自分は何を考えているんだろう」 たまにふと考えてみたりするけれど、いつも何も思い浮かばない。 ただ、自分に残された時間が少なくなればなるほど「何かを作りたい」という気持ちよりも、「何かを残したい」という気持ちの方が強くなるのかな、なんて漠然と思っている。 こうして文章を書くことも、日々働くことも、「作りたい」、「生み出したい」という気持ちが原動力になっている。 だから、自分にできるかどうかよりも、やりたいかどうかを大切にしている。 それは、自分に残された

「仕事楽しい?」にパッと答えられない時点で

「仕事楽しい?」 「人生、充実してる?満足してる?」 「順調に進んでる?」 こういう質問に対して、 「“楽しい”って、そもそもどういう状態だ?」 「“充実”の定義って何だろう」 なんて少しでも考えてしまうようなら、きっと満たされない何かがある。 本当に充実していたら、満足していたら、楽しかったら、己の直感が即座に働くはずで、「うん、充実しているよ!」なんて言葉がパッと出てくるのだろう。 いつだって、言葉の定義や解釈、普段難しく考えないようなことを難しく考え出す時は、

好きな仕事とやりたいこと、いずれかしか選べないとしたら

「人は一日の中で、何千・何万回と選択している」なんてよく言われる話だけれど、そういう選択はたいてい選択している実感すらない。 僕らがいつも「選択」と表現するのは、決まって人生に関する選択だ。 キャリアやライフイベントといった進路。 とりわけ、夢を追うか・諦めるかの選択を迫られる。 日常で何気なくしている選択みたいに、流れるように、躊躇いもなく選択できたら良いのだけれど、そういうわけにはいかない。 水回りの頑固な汚れのごとく、頭の中にこびりついて離れようとしない。

手軽になって失ったもの

パソコンでnoteの文章を読んでいてハッとした。 久しぶりに、じっくり文章を読んでいる気がする 普段、他のクリエイターさんの文章を読む時はスマホを使うことがほとんどだから気づかなかったけれど、最近自分の中で「読む」がただの消費活動になっていた。 何となくさっと読んで、読んだ気になって、気に入ればスキをつける。 その一連の作業、消費活動を、親指だけで惰性で行っていく。 元々それがしたくて文章を読んでいるわけではないのに。 - 様々なモノ・コトが手軽になった。 食

仕事も、やりたいことも、生き方も、変わっていく

何かを選択する時、例えば仕事を探す時、 ・一生続けられるのだろうか ・これが自分の天職なのだろうか なんて考えたりしてしまう。 さも、これから選択するものが“最後の選択”になるかのごとく。 けれど、実際そう思って選択をしても、蓋を開けてみればあっさり転職していたり、「あの時、どうしてあんなに迷ったんだろう」とさえ思うこともある。 仕事に限らず、やりたいことだって、生き方だって、自分自身だって、そのうち変わっていく。 たくさん経験して、刺激を受けて、挫折して、その繰

迷った末の意思決定は、迷わなかった時より強い

日々色んな選択と決断を繰り返している。迷うことは絶えない。 できることなら迷わない方が良い、迷わず選択できるならそれが良いと思っていた。 けれど、案外迷うことも悪くないのかもしれない。 振り返ってみると、過去に迷った末の決断が今の自分を形作っている。 一切の迷いなく決めたことももちろんあったけれど、迷わなかった選択よりも、迷って迷って迷い抜いた選択はその後、力強い意思決定になっている。 そりゃそうか。あれだけ迷ったんだから。 どんな選択をしても、その選択を遅かれ早

適度なストレスがないと、かえってストレス

つくづく面倒な生き物だ、人間は。いや、自分だけかもしれない。 心の余裕が欲しくて、物理的な余裕が欲しくて、そうやって選んだ生き方だったはずなのに、どうして物足りないのだろうか。 忙しなさ過ぎると自分を削ってしまうけど、あまりにも余裕があると、それはそれでかえって満たされない。 何もせず過ごす日曜日と、何かしら予定が入っている日曜日。 前者の方が充実するような、そういう感覚。 例えば、責任があると期待やプレッシャーに押しつぶされそうになるけれど、その分やり切った時は何

無駄を楽しめた方が良いのは、人生がそもそも無駄だからか

「無駄だと思うことでも楽しめた方が良い」 と、生きていて何度か聞いたことがあるけれど、分かるような分からないような気がしていた。 確かに、その方が何かとハッピーな気がする反面、限られた人生の中で無駄なことに時間を使うのってどうなんだろう、という疑問が残っていた。 けれど、よくよく考えてみると、大前提である「人生」がそもそも無駄である。 どうせ死ぬのに生きているわけで、生きている間に得たものは有形無形問わず、死んでしまったら自分の元には一切残らない。いや、もはや「自分」

今はまだ「選択と集中」する時じゃない

勉強に集中できない時のような「点で見た時の集中力」も、一つの仕事が長続きしない時のような「線で見た時の集中力」も、それらを高めるには、基本的に絞った方が良い、とされている。 英単語を覚えながら数学の問題は解けないし、仕事でも本業と副業を器用にこなしつつスキルアップを目指すのは大変だ。 「選択と集中」 優先順位をつけ選択する、選択したらあとは集中する、そうすることで目標を達成できたり成果を生むことができる。 そういえば、選択って必ず「1つ」でないといけないのだろうか。

生きる理由はない。けれど死ぬ理由もない

非常にセンシティブなタイトルかもしれないが、 生きる意味(理由)はない。けれど、死ぬ意味(理由)もない やる理由はない。けれど、やらない理由もない のような状況が日常の様々な場面で起こりうる。 何かを選択するとき、それを選ぶ理由を考えるのは自然な流れだし、何かを決断するとき、それに決めたい理由を模索するのも自然だ。 けれど、そういう時に限って、納得のいく理由や意味を見出せない時がある。 これまでの人生を振り返ると、「こっちは、何か決め手に欠けてはいるんだけど、特にデ