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#迷い #選択 #決断

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迷える子羊。
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#生き方

生き方だけが、洗練されない

年齢を重ねるにつれて、自分に合った服の着こなしや暮らし、人付き合い、何となく掴めてきたような、洗練されてきたような感じがするけれど、生き方はいまだ洗練されない。 ・シンプル ・スタイリッシュ ・垢抜け 「洗練」と聞くと、そんなイメージが真っ先に思い浮かぶけれど、シンプルな生き方もスタイリッシュな生き方も、それが正解というわけではない。 シンプルな着こなしが、必ずしも「洗練されたファッション」というわけではないのと同じように。 そう考えると、洗練とは、“自分に合うものを

保守的でいるために、挑戦し続ける

「10年後、自分は何を考えているんだろう」 たまにふと考えてみたりするけれど、いつも何も思い浮かばない。 ただ、自分に残された時間が少なくなればなるほど「何かを作りたい」という気持ちよりも、「何かを残したい」という気持ちの方が強くなるのかな、なんて漠然と思っている。 こうして文章を書くことも、日々働くことも、「作りたい」、「生み出したい」という気持ちが原動力になっている。 だから、自分にできるかどうかよりも、やりたいかどうかを大切にしている。 それは、自分に残された

考えれば考えるほど、「やってみなきゃ分からん」となるけれど

動いている時間よりも考えている時間の方が長い時、「結局やってみないと分かんないよな」と意外と楽観的になれたりする。 ただ、考えている時間よりも動いている時間の方が長い時、「本当にこれで良いのかな」とか「もっとちゃんと考えた方がいいかな」なんて、あれこれ考えてしまう。 この塩梅だけは、年齢を重ねてもいまだに掴めない。 「やると決めたら信じてやり抜く」、これが難しい。 考えるのも動くのも、いずれも中途半端になってしまう。 「やる」の認識が甘すぎるのかもしれない。 少し

仕事も、やりたいことも、生き方も、変わっていく

何かを選択する時、例えば仕事を探す時、 ・一生続けられるのだろうか ・これが自分の天職なのだろうか なんて考えたりしてしまう。 さも、これから選択するものが“最後の選択”になるかのごとく。 けれど、実際そう思って選択をしても、蓋を開けてみればあっさり転職していたり、「あの時、どうしてあんなに迷ったんだろう」とさえ思うこともある。 仕事に限らず、やりたいことだって、生き方だって、自分自身だって、そのうち変わっていく。 たくさん経験して、刺激を受けて、挫折して、その繰

迷った末の意思決定は、迷わなかった時より強い

日々色んな選択と決断を繰り返している。迷うことは絶えない。 できることなら迷わない方が良い、迷わず選択できるならそれが良いと思っていた。 けれど、案外迷うことも悪くないのかもしれない。 振り返ってみると、過去に迷った末の決断が今の自分を形作っている。 一切の迷いなく決めたことももちろんあったけれど、迷わなかった選択よりも、迷って迷って迷い抜いた選択はその後、力強い意思決定になっている。 そりゃそうか。あれだけ迷ったんだから。 どんな選択をしても、その選択を遅かれ早

適度なストレスがないと、かえってストレス

つくづく面倒な生き物だ、人間は。いや、自分だけかもしれない。 心の余裕が欲しくて、物理的な余裕が欲しくて、そうやって選んだ生き方だったはずなのに、どうして物足りないのだろうか。 忙しなさ過ぎると自分を削ってしまうけど、あまりにも余裕があると、それはそれでかえって満たされない。 何もせず過ごす日曜日と、何かしら予定が入っている日曜日。 前者の方が充実するような、そういう感覚。 例えば、責任があると期待やプレッシャーに押しつぶされそうになるけれど、その分やり切った時は何

他者思いだからこそ、自分勝手に生きることに全振りしてみる

「幸せ」は誰のものなのだろうか。 『他人の幸せが自分の幸せに乗り移ってしまうこと』についても考えております… (みをほさん) 他人の幸せに喜びを感じられることは、人生を豊かにする一つの要素だと思う。 ただ、他人の幸せでしか自分の幸せを実感できないのは、諸刃の剣のように感じる。 大ざっぱに言ってしまえば、「他人の幸せへの依存」かもしれない。 「他人の期待」をテーマに、以前似たような文章を書いた。 幸せや期待、利他や依存について考えるとき、いつも思うことがある。

手に入れるよりも、手放してみる

手に入れようとする時より、手放す時の方が勇気がいる。 手に入れた時より手放した時の方が、心が軽くなる。 手に入れたものより手放した時に残ったものの方が、大切にしたくなる。 手に入れた時より手放した時の方が、何者かになれる気がする。 - 手に入れようとしてうまくいかないなら、手放してみる。 自由になりたい。 自分を不自由にさせているものを手放してみる。 成長したい。 「成長したい」という欲を手放してみる。「楽しみたい」と思ってみる。 何者かになりたい。 一

無駄を楽しめた方が良いのは、人生がそもそも無駄だからか

「無駄だと思うことでも楽しめた方が良い」 と、生きていて何度か聞いたことがあるけれど、分かるような分からないような気がしていた。 確かに、その方が何かとハッピーな気がする反面、限られた人生の中で無駄なことに時間を使うのってどうなんだろう、という疑問が残っていた。 けれど、よくよく考えてみると、大前提である「人生」がそもそも無駄である。 どうせ死ぬのに生きているわけで、生きている間に得たものは有形無形問わず、死んでしまったら自分の元には一切残らない。いや、もはや「自分」

今はまだ「選択と集中」する時じゃない

勉強に集中できない時のような「点で見た時の集中力」も、一つの仕事が長続きしない時のような「線で見た時の集中力」も、それらを高めるには、基本的に絞った方が良い、とされている。 英単語を覚えながら数学の問題は解けないし、仕事でも本業と副業を器用にこなしつつスキルアップを目指すのは大変だ。 「選択と集中」 優先順位をつけ選択する、選択したらあとは集中する、そうすることで目標を達成できたり成果を生むことができる。 そういえば、選択って必ず「1つ」でないといけないのだろうか。

選択肢は意外と限られている

人生、迷いの連続で嫌になってしまうけれど、幾度迷えど何やかんや乗り越えられている。 それは、選択肢は意外と限られているから、かもしれない。 「選択肢は意外と限られている」との前提を持って生きることは、諦めとも言えるのだけど、目の前にある選択肢の中からしか決断はできない。 何かに悩んでいる時、 ・目の前にある選択肢に納得できず新たな選択肢を模索している状態 ・目の前にある選択肢の中からどれを選ぼうか吟味している状態 ・そもそも目の前にどんな選択肢があるか分からない状態

何かを続けるより、辞める方が難しい

惰性で続けられることはあっても、惰性で辞めることはない。 何かを辞めるというのは、何かを続ける以上に、その意思決定に体力や時間を要する。 小中高と、一度始めたら最後までやり切るのが美徳と教わってきた。 部活や勉強、習い事、途中で辞めることは推奨されず、たとえ結果が出なくても、最後までやり切ればそれが賞賛される。 20歳になるまで、何かを辞めるということを経験したことがなかった。 物事を途中で投げ出さない人間性が自分の良いところと思うくらいには、継続力ややり切る力はあ

本番になった途端、分からない問題をとばすのが怖くなるやつ

分からない問題に時間を取られてしまった結果他の問題が解けず、思うような点数が取れなかった。 本番ならではの緊張感がそうさせたのかもしれないけれど、一問をとばすことができないのは、心のどこかで「満点」を捨て切れなかったからだと思う。 そもそも、満点を取ることが目標だったっけ。 目標は「目標点数を取ること」だったはずで、その目標点数は、決して満点ではなかったはず。 だから、一問くらいとばしたって平気だし、本番どうしても分からない問題が出題されることなんてよくある話だ。過去

「明日こそ」で過ぎ去った、数々の明日

「明日こそ」 そう決意して、一体何度の明日が過ぎ去っていったのだろう。 それは本当に明日じゃないとできないことだったのだろうか。 今日それに取り組むことは本当にできなかったのだろうか。 そんな後悔と嫌悪感も明日にパスできれば少しは楽だけれど、あいにくそうはいかない。 「明日」に夢を見過ぎなのだ。 今日できることを明日にやろうとする人間が、明日劇的に何か変化しているなんて、そんな淡い期待をするなんて、脳内のお花畑が満開過ぎる。 明日やろうは馬鹿やろう。 絶対に明