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#アラサー #20代

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きっとあなたも。
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#葛藤

夢中になれない自分、夢中で探し物をする彼、無慈悲なビル群に佇む二人。

休日、人気がなく忙しなさから解放された、閑散としたオフィス街が好きだ。 チェーンのカフェ店を含み、コンビニ以外の店舗は軒並み閉まっていて、この街が普段いかに労働者で構成されているかが伺える。 無我夢中で仕事をこなす日々、なんて表現すれば聞こえは良いけれど、たいていは期限や数字に追われる日々で、そんな様子は側から見れば、ある意味無我夢中なのかもしれない。無論、僕自身も平日この街に溶ける労働者の一人である。 どういうわけか、いや、だからこそなのか、こうして休日もオフィス街に

ぜんぶ、東京のせいにして良いですか

何者かにならなきゃと焦ってしまうのも、若いうちに成功するのが正しいと思ってしまうのも、とにかく何かしなきゃと気持ちが落ち着かないのも、全部、東京のせいにして良いのかな。 自分のペースで、自分らしく、自分の身の丈に合った生き方を、ただそうしていたいだけなのにうまくいかないのは、東京のせいにして良いのかな。 東京という“リアル”の中で生きているはずなのに、SNSのような、“one of them”の世界を生きている感覚だ。 「東京」という大きな世界の中で、何者でもない一人と

25歳、息するように感じる不安と焦り

20歳を超えてから、希望や期待よりも、不安や焦りの占める割合が年々高くなってきている感覚がある。 何もしない時間を過ごせば焦燥感に駆られ、だらだら眺める画面の先の他人の人生に「自分はどうなんだ」と不安を感じる。 昔は、何も考えずただただ直感で生きていた。 もちろん、当時は当時の自分なりに考えてはいた。 けれど、年齢を重ねるにつれ、築き上げてきたものや得たものも、少しずつではあるがそれなりに増えてきて、徐々に“手放す”ハードルが上がってきている。 「やっちゃいますか!

「知り合いがYouTuberなんだよね」なんて言っているうちは

20代前半くらいまでは、活躍している知り合いや我が道を行く同級生を、どこか他人事のように捉えていたけれど(他人なのだから、そりゃそうなのだけど)、段々他人事のようには思えなくなってきたというか、素直に喜べなくなってきた。 昔は、 「知り合いがYouTuberで、チャンネル登録者数十万いるんだよね」 「同級生が起業して、今どこどこに住んでいるんだよね」 「学生時代の友人が、〜〜で全国1位なんだよね」 なんて、どこか誇らしげに言えていたけれど、 「いつまで“言っている側”

24歳って、半端だね

いつの間にか、年齢を表記する時は「才」ではなく「歳」を使うような年齢になってしまった。これらの使い分けって、何だったんだろう。 これまで様々な年齢を経験してきたわけだけれど、その年齢ならではの葛藤や悩みがあるような気がする。 例えば、「18歳」なら大学進学や就職、進路に悩む年齢だし、「20歳」も就職活動や始まったばかりの社会人生活のことで悩む年齢だろう。 もちろん一概にそうとは言えないのだけれど、年齢ごとにある程度多くの人が通るであろう悩みや葛藤があるはずだ。 「24