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それは変形

サヴァン症候群と診断された人が、類稀なる能力を発揮することはよく知られている。
何十年、何百年先のカレンダーを覚えている人や、音楽的、絵画的才能を、特殊な訓練なしに獲得してしまう人など。
一説によると、これらの能力は彼らだけに特異的に備わっているものではない。
むしろサヴァン症候群以外の人たちは、能力が抑制されているらしい。
例えば、写真記憶の能力を持つ人は、視覚情報の全てを記憶することができる。
しかしそうすると得られる情報が多すぎるから、通常は、意味があると判断したこと以外は記憶に残さないようにしている。
そうやって、視覚情報の認知や記憶以外に、中枢神経系がリソースを割けるようにしている、というのが合目的的な解釈だ。

自然条件でヒトが生存を試みる時、あらゆる場面で、その場面に合わせた能力が発揮されなければならない。
つまり、スペシャリストであることよりもジェネラリストであることが求められる。
現在では、人類がある程度の社会を形成するようになり、役割分担が可能になった。
もう、ひとりの人間が、生存に必要な能力の全てを持たなくてもよい。
だから、程度の問題はあるけれど、それぞれの役割を担うスペシャリストが続々と生まれてくるように遺伝的進化を遂げたほうが、もしかしたら文明は発達するかもしれない。

現実には、生まれつきのスペシャリストは数が非常に少ない。
上記の仮説が正しいとするならば、ほとんどの個体は、適度に能力を抑制し、それぞれに使用するリソースを節約することによって、全方位的に最低限の能力を発揮できるよう、システムが組まれていることになる。
だから後天的な訓練によって、本来ジェネラリストであるはずの人が、無理矢理に専門性を獲得している。
知的にも精神的にも肉体的にも、ある特定の能力に特化しようとする。
達成するためには何年もかかる上に、もしかしたらそれは「不自然」なことかもしれない。
専門を持つというのは、我々の知性を変形させる行為なのだと思う。

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