大雑把にいえば巡る

毎年、年末年始を迎えると時間について考えてしまう。
時間をムダにしたとか、1年がすぎるのは速い、といったことは常に思っているので、そういうことではない。

古典物理の世界では、時間は直進して、つまり過去から未来へ、同じ速さで一方向に進み続ける。
物理学を持ち出さなくとも、普通に生活する中で、昨日は過去でもう戻ってこないし、今日の次は明日だ。
しかしそれと同時に、「循環する」時間感覚が我々の中に存在している。
季節は巡って同じところに帰ってくるし、1日だって朝昼晩ときたら、次は朝だ。
1年が終わり、また振り出しに戻って1月1日を迎えるから、巡るほうの時間を思い出すのかもしれない。
もちろん、去年の桜と今年の桜はちがうし、昨日の朝と今日の朝はちがう。
時間は進み続けているのだから、同類かもしれないが同じではない、と思っている。
同じようだけれどちがう、というこの感覚は、脳の中でなにかしらの縮尺を変えているのだろう。
引きの画で見れば同じだけど、近よるとちがう、という捉え方を我々はよくしている。

1年はいうまでもなく地球が太陽の周りを一周する時間のことだ。
地球の公転により、地球上の同じ場所でも暑かったり寒かったり、雨が降ったり雪が降ったりして、それらの周期を1年毎に繰りかえす。
しかし厳密にいえば、1年たって同じ場所に戻ってきたとしても、状況は同じではない。
地球の自転は少しだけ遅くなっているし、太陽も年々、光の強さを変えている。
何十億年かたてば、太陽は燃え尽きて、今ある地球環境はすべて失われる。

人間が実感として認識できる範囲の時間、せいぜい何百年とか何千年とか、その間であれば、1年毎の繰り返しは、少しずつ変わっていくにしてもだいたい同じ、と感じられると思う。
地球のそれぞれの場所で、公転に従いしかるべき量の光を太陽から受けとって、地球環境のシステムは動き続ける。
つまり今のシステムが働いているうちは、時間が循環するように感じることができるのだろうと思う。
まったく同じでなくても、脳がシステムとして同じ、あるいは概念として同じだと判断する現象が繰り返せば、そこに周期性を見出す。
そして系を一定に保ったまま継続するシステムは循環しなければならない。
同じところをぐるぐる回っていなければ、一定に保てないからだ。
車のエンジンだって吸入、点火、排出を繰り返さないと動き続けないし、海に流れ込んだ雨水は、蒸発して雲を作りまた雨になる。

徐々にシステムが壊れ、あるいは変化してしまえば、
周期性が無くなるか、あるいは別の周期に変化するだろうから、
そうなればもう、その現象やシステムを見ても時間が巡る感覚を覚えないだろう。
繰り返す1年も、何億年、何十億年というスパンの引きの画で見えれば、そこでは周期性よりも、変化しつづける直進性が目立つにちがいない。

人の体も、短期的には同じシステムにのっとり物質が入れ替わっているので一定に見えるが、何年か、何十年かたてば、
やはり周期性よりもその人がたどってきた変化の方に目がいく。
巡る時間は、目を近づけて事物の周期性を見出す作業の結果だ。

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