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言葉数

自分が文字数の多い人間である理由をときどき考える。
何を話すにしても説明が長い理由のことだ。
最初から最後まで説明したくなるし、想定される反論についても触れておきたい。
研究者として論文を作成するときは、職業としてそういう書き方になるのだけれど、もっと昔からそうだった。
性格にすぎないと言われればその通りだ。

記憶を遡ってみると、自分の言っていることを理解してくれる人間が、小さいころ周囲にいなかったような気がする。
友達とけんかしたり先生に怒られたときの理由とか、そのとき感じていたこととか。
もう少し大きくなってからは、政治のこととか社会のこととか。
そもそもあまりちゃんと自分の気持ちや考え方を話していなかった。
これは本当に自分の臆病な性格と関係している。
ひとに否定されるのが怖かったことを覚えている。
だから、よく喋るわりにひととぶつかると話すのをやめてしまう。
心の中は反論したくてたまらないから、ひとりで悶々とすることになる。
こんな調子だったから、自分の考えていることが理解されなくて当然だ。

自分の言いたいことを汲み取ってくれるひとが現れたのは、大学生になってからだった。
中学や高校の、同級生や先輩、先生の中にも、話せば分かってくれるひとがきっといたにちがいない。けれど話せなかった。
わたしの家は完全な核家族で親戚付き合いもほとんどなかったから、小学生の頃に、背伸びしたわたしの意見を受け止めてくれるのは、両親しかいなかった。
けれど、自分の言いたいことが親に伝わったことは今まで一度もない。
もしかしたら、その記憶が出発点になっているのかもしれないと思う。
もともと慎重な性格の上に、最初の失敗を引きずって成長してしまった。
断っておくが親を責めたいわけではない。
血がつながっていようとも、自分以外の人間の意見を理解できるのは、ほとんど偶然に近いと思っている。
親以外の家族として、わたしには姉がひとりいる。
姉には、大人になってからかなり伝えることができた。
それはわたしにとって間違いなく幸運なことで、少し救われた。

そんなわけで、わたしはずっと言葉数が多い。
あるいはあきらめて完全に沈黙してしまう。
人間不信とはちょっとちがうと思っている。
むしろ、理解してくれるに違いないと楽観していたから、そうではないと気がついたときに面倒なことになってしまった。

それに、理解してくれていてもいなくても、信頼しているひとのことは信頼している。

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