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感情と理性についてぼんやり思うこと②

今日は時間がないので昨日の続きでごまかそうと思う。

ふつう人間は、というと主語が大きすぎるので、すくなくともわたしは、と限定しておくが、自分の中に複数の矛盾する感情を抱えている。

お金はほしいけど働きたくないとか。
ひとには好かれたいけど自分の主張はとおしたいとか。

毎日すこしずつ歳をとっていくなかで、相反する感情や価値観は理性によって調整される。
どちらかいっぽうの感情をあきらめることもあるし、うまくバランスをとることもある。

もちろん理性をつかわなくても、なんとなく調整はできる。
けれど、うまく調整しきれないところが出てきて、問題になることはときどきあるのじゃないだろうか。

だから、自分の感情と向き合い、分析して総合的に筋の通った人格を形成するためには理性の力はかならず必要だ。

まず、できるだけ正確に自分の感情とか欲求を把握すること。
と書いてみたが、認知的不協和でゆがめられた自分の感情をひとつづつほどいて、ありのままの原型をとりだすのはものすごくしんどい。
たぶん、完全にできたら、それはブッダ的ななにかだと思う。

正確じゃないと問題になるのは、場面によっていっていることが違うとか、自分の矛盾に気がつかずに他人に押し付けてしまったりするからだ。

お金は払いたくないがいいものがほしい。

とっさに出てくる例が卑近すぎて嫌になるが、矛盾した感情をてらいもなく表現することは、矛盾した感情を相手におしつけている状態で、要はわがままだ。

わがままでいいと開き直る価値観ももちろんあるが、それは社会的に許容されないことがままある。
保守的な社会であれば、価値観そのものを押し付けられるから猛烈な反発を受けるだろうし、リベラルな社会でもある程度以上は許容されない。

リベラルな社会では多様性が重要視されるが、それは価値観が真逆のひとでも、となりに存在することを許容することを意味する。
念のため申し添えておくと、仲良くするという意味ではなく、お互いに邪魔しないという話だ。

お互いの価値観が違うもの同士が社会的な関係性を築くには、理性に頼るしかない。
つまり、ロゴスという意味での言葉である。
そういった状況のとき、相手の言っていることが一貫していなかったり、筋が通っていないのは致命的だ。

ある感情を発端にしてそこから理性を利用して、自分の生き方や判断基準、社会的な振る舞いを決めるのだとしたら。
自分の生き方を自分で決められる多様性のある社会では、理性と感情の役割を自覚する必要がある。
つまり、相手の論理的な穴は批判するが、元にある価値観自体には触らない、という方法論しかないのではないだろうか。

不完全な存在なりに気をつけたい、とたまに思う。

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