記録

数日前、父が死んだ。
朝方だったので死に目には会えなかった。
東京駅から新幹線に乗り、昼前に父が入院していた神戸の病院についた。
姉はどうしても外せない出張先から同じく新幹線に乗ってやってきた。
病理解剖をしたいといわれたので、病棟の入り口の椅子に座り母と姉と三人で待つ。
10時から始まった解剖は、2時間くらいで終わると思っていたが結局3時までかかった。
主治医の説明では感染対策に時間がかかったそうだ。
その後、明日の火葬まで遺体を安置してくれるとのことで、葬儀会社まで付き添った。
遺体を運び出し終えて、事務所で料金の説明を受ける。
父の兄弟はみな関東に住んでいて、神戸にいるのは私たちだけだ。
典型的な都会の核家族。
父の兄弟は高齢なので、新型感染症禍の最中に神戸まで来てもらうのは遠慮してもらった。
となると見送るのは家族3人だけだ。
父は工学部出身のエンジニアで製鉄会社に勤務し、研究開発をずっとやっていた。
わがままな人で酒ばかり飲んでいたが、思想は合理的で無神論者だった。
話し合った結果、もっとも簡素な形の直葬にした。
私と姉は間に合わなかったが、母は父が死ぬ前に面会へ行きお別れをしたからそれで十分と言っていた。
直葬の場合、市の規格があって料金が決められている。
葬儀会社の担当者は、その他に必要なもの、ドライアイスや骨壷はサービスしますと説明し、続けて「その代わり心付けを3万ほどいただきます」と言った。
おそらく、市が決めた料金以外はとってはいけないか、あるいは税金を払わなくてもよい形で払ってほしかったのかもしれない。
担当者は何度か、「この3万円は領収書を出せないのですが」と丁寧な口調で付け加えた。
葬儀会社から実家へ戻る途中のタクシーの中で、「もうちょっと安くなったかもしれんな」と姉が小さな声で言った。
姉は私より世馴れているので、心付けの金額は交渉できるのではないかと思ったみたいだ。
しかしやっぱり私より世馴れているので、その場で「まけてくれ」とは言わなかった。

実家に着くと、2ヶ月ほど前、父に買ってあげたシェーバーを見つけた。
アルコール洗浄ができるもので、替えの洗浄パックを6個つけてあげたと思う。
1個で1ヶ月くらいもつのでほとんど余っていた。
いつかは死ぬし、いつ死んでもおかしくないとは思っていたが、とりあえず半年分と思って送った。
結果、あまり使われないままになってしまった。

葬儀会社の安置室で父の顔を見た。
棺に入れられた父の顔は、CGで作った古代人の再現骨格標本みたいだった。
北方系の血が入っているであろう父の家系は日本人にしては彫りが深い。
その上、恰幅の良かった父もさすがに最後は痩せていたので骨格が目立ったのだろう。
元気だったころの印象とは違って見えた。
葬儀会社の担当者は、綺麗な顔だと言っていた。
母も同じことを繰り返し言っていた。
たしかに、痩せているのに皮膚は白く張りがあってつるりとしていた。
皮膚にしわがないのは、低アルブミン血症による浮腫でつっぱっているからで、白いのは貧血だったからだと思ったが口には出さなかった。
直葬にしたので儀式らしい儀式はなかったが、棺の前には線香と少しばかりの花が用意されていて、火葬場に行く前に10分ほど時間をとってくれた。
家族は誰も泣かなかった。
母はしきりに、「お父さんは好き勝手生きたからね」とか、「お疲れさま」などと父に言葉をかけていた。
本格的な葬式をしたほうがよかったかもしれないとか、生前にもっとしてあげられたのではないかなどと、悔やんでいたのかもしれない。
パーキンソン病で要介護状態だった父の面倒を見ていた母は、しかし同時に、できることはぜんぶやったとも言っていた。
母は自分の感情に敏感なので、矛盾する心にちゃんと振り回されて、生前の父に対する愛憎いりまじった感情を見つめていたのだと思う。
私と姉は自分の気持ちを抑えこみ見ないふりをしてしまうタチで、いつまでも抱え込んでしまう。
心の中にあるさまざまな感情と折り合っていく母のことを羨ましいと思った。

火葬場につくと、ものの数分で父は棺ごと火葬炉に入れられた。
棺はストレッチャーごと霊柩車から降ろされ、火葬炉につながる、ストレッチャーと同じ高さのレール状の台に移されて、そのまま炉の中へ納められた。
各火葬炉の脇には鍵穴があり、係員が鍵を差し込まないと炉の扉は開かないようになっていた。
すべてがシステマティックだ。
日本人的な非合理性や習慣や文化とは無縁な、別の一面として日本人が持つ改良癖が結集したような合理的システムだった。
私は父の死から受けていたであろう空虚な感情を忘れて感心していた。

火葬には2時間半ほどかかった。
火葬炉のある建物の隣にもうひとつ建物があり、一階には、ソファーセットがいくつか置かれたロビーと、売店、喫茶店があり、二階は葬儀場のようだった。
私たちが使った火葬場は山の中にあり平地より涼しい。
石造りのロビーは、5月にもかかわらず冷んやりとしていた。
30分ほどソファーに座っていたが、母と姉が寒いと言い出したので近くのホームセンターへ車で向かい、一遇に併設されたカフェでマフィンとコーヒーを注文した。
モーニングセットのマフィンとコーヒーは合わせて200円しかしなかったのに、どちらもおいしかった。
ホームセンターの2階はまるまるペット用品売り場で、棚一面に陳列されたペットフードの種類に驚き、延々とじゃれつく3匹の猫をガラス越しに眺めた。

父は昔の人間にしては体が大きく骨も太かったので、火葬後もほぼ丸のまま骨格が残っていた。
言われた時間に火葬炉の前へもどると、棺が載せられていた鉄製の板がスライドして炉から出てきた。
当然、棺は綺麗になくなっていて、灰と骨が残っていた。
係員の人は、深い黒色のスラックスに白のワイシャツ、ノーネクタイで、スラックスと同じ色の制帽を被った中年の男性だった。
お骨拾いは係員の誘導で行われた。
病院から遺体を運び出してからお骨拾いまで、対応してくれた人の説明や誘導は徹底して手慣れており、淀みがなかった。
毎日のことだから当たり前だ。
まるで遺体は、大量生産の規格品のように、運ばれ、安置され、燃やされた。
いっそ清々しいほどに、誰にでも死は訪れ、そして平等であることを証明していた。

火葬場の係員の男性は、ひとつずつ説明しながら骨を拾い上げた。
足の指、踵、膝の皿、骨盤、背骨、頭蓋骨、最後に喉仏。
我々は係の男性が台に載せてくれた骨を骨壷に納めるだけだった。
家族3人で交互にやった。
係の人はこれがどこそこの骨ですと言いながら、菜箸のようなもので骨を割り、骨壷に収まるサイズにして台に載せた。
菜箸のようなといったが、30センチメートル程度の細い木製の棒なので、本当に菜箸そのものかもしれない。
場所が神戸なので当然みな関西弁で話すのだけれど、その係員の男性は話し方が土井善晴にすこし似ていた。
場所が場所だけに、彼は本物より落ち着いた口調で説明をしてくれた。
そのちょっと暗めの土井善晴が、慣れた手つきで菜箸をつかって骨をわり、台の上に載せた。
まるで天ぷらを揚げているみたいだと思った。
天ぷら屋のカウンター越しに「これはキスです。今は旬ですから」と揚がったばかりの天ぷらを出すように、「これはくるぶしの骨です。しっかりしてますな」と言いながら、父の骨を台の上に載せた。
骨はちょうど骨壷に収まった。
骨壷の大きさはいろいろあって遺族が選ぶ。
土井善晴は、骨壷のサイズに納まる量を計算して骨を割っていたのだと思う。
骨壷を胸の前に抱えて火葬場を出る。
「ああこれがよく有名人のお葬式で見るやつか」と思った。
最後に骨壷を渡されるまで、やはりベルトコンベア式のスムーズさだった。

神戸の山の中にある火葬場は、若い葉を茂らせた木々が綺麗だった。
晴れた空は薄い水色で、敷地にはツツジが咲いていた。
火葬場から登る煙は、最初は茶色がかっていて、数分すると白く変わる。
炉の温度が十分高くなって不完全燃焼しなくなるからだろうかと、立ち登る煙を見ながら思った。
入り口を挟んで反対側の火葬炉では、数人の遺族が同じく立ち会っており、ひとりは子供を抱え、ひとりは泣いていた。
その遺族の火葬炉からも、白く綺麗な煙が空に伸びていた。

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