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感情と理性についてぼんやり思うこと

感情と理性は反対語でもないし、対立するものでもない、と思うのだがこういう考え方は一般的なのだろうか。

哲学や思想の領域で、感情とか理性とかがどのように扱われているのかわかれば判断できるのかもしれないが、残念ながら知らない。
だから、ただの日記として独りごとのように書いてみる。

例えば、スポーツをやる上において、モチベーションと技術的な理論は両方必要で、対立するものではない。
最初に楽しいとか勝ちたいとか、なんらかのモチベーションが存在して、スポーツを続けようと思ったとする。
そして、うまくなったほうが勝てるし楽しいと分かって、うまくなりたいと思うとする。

ここまではほぼ感情であり理性の出番はない。
また、「スポーツは楽しむもの」「スポーツは勝つためにある」などといった言葉は一種の価値観でもある。

つまり、感情、もうすこし高級な言いかたでいえば価値観は、理性より上位にある。
ひとは、なぜそのスポーツが好きなのか、とか、なぜ勝ちたいのか、を言葉で語ることができるが、それは感情を理性で分析して言語化しているのであって、最初から論理的な理由が存在するわけではない。

好きなのものは好き。
やりたいものはやりたい。

それ以上さかのぼることができない地点がある。
すべては感情から出発する。

うまくなるためにはどうすればいいのか、どういうトレーニングをすればいいのか、と考え出す当たりから初めて理性が出番をえる。
うまい選手のプレーを見たり、質問したり、本を読んだりして情報を集める。
分析して論理的に考え体系化し、練習する。

ある場所に行きたいと願うことは感情で、理性はそれを叶える手段にすぎない。
しかし一方で、感情と理性とは、ぶつかり合う敵同士のようだと感じることがしばしばある。

例えば、サッカーをプレーしていて、ミドルシュートが打てる位置でパスを受けたとする。
ゴール前にはフリーの味方がいる。
理屈ではパスしたほうがゴールの確率があがるからそうすべきだ。
でも自分でシュートを打ちたい、自分で点をとりたいと思うこともあるだろう。
(ここでは、自分でシュートを打つという積極性がトータルで試合を有利に運ぶという理屈は考えない)

「頭では分かってるんだけど、そうしたかったんだよ」

確率の低いミドルシュートを打ってしまった選手はそう言うかもしれない。
それの善し悪しはおいておくとして、これは理性と感情の対立ではない。

勝ちたいという感情と、自分で点を決めたいという感情が対立しているにすぎない。
パスを選択したのなら、勝ちたいという価値観をより優先したのだろうし、自分でシュートを打ったのなら、その逆だ。

理性の出番は、それぞれの感情や価値観を分析し言語化し、どう矛盾しているのかを明確にして、優先順位を決めたり、折り合いをつけるための判断材料を提供することでしかない。

理性はたんなる道具であり技術だ。
だから、理性を感情より優先させる、なんてことはあり得ない。
理性は常にフラットだ。

理屈を言っているひとに感情がないわけじゃない。
理屈で感情を歪めたり、マスクしているひとはいる。
最初から感情の揺れ動きが希薄なひともいる。
しかし、それらと理性的、つまり理屈をうまく使いこなせているかどうかは、なにも関係がない。


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