見出し画像

印象的だろうと一回は一回だし

家から歩いて五分ぐらいの場所にあるイタリア料理屋をたまに利用する。
私は中途半端に保守的な人間なので、たらこスパゲッティなど、日本人が考えたイタリア料理より、元々向こうにある料理の方が好きだ。
ちなみにナポリタンは大好きなので、喫茶店のメニューに載っているのを見ると思わず注文してしまう。
それはともかく、近所のそのお店はランチメニューにトマトソースやボンゴレなどのパスタを出してくれて必要以上に話しかけてこないので、私のためにある店だと勝手に思っている。
おまけにティラミスがおいしい。どうおいしいのかは分からないがとにかくおいしい。
さして出歩く用事もなく、用事がないなら家にいた方が良いご時世なので、家から歩いて行けるところも重宝している。

ある日の午後そのイタリア料理店に向かうべく歩いていると、「パン全品100円です」という声がした。
一階が駐車場になっているタイプのビルで、その駐車場を利用したパンの販売が行われていた。
歩道ギリギリの場所にワゴンが並び、目一杯パンが載せられている。
値段に釣られたのか前を歩いていた女性がぴたりと足を止めた。
そしてパンを物色し始める。
私は、女性のあまりの反応の良さに少し驚いた。
手頃な値段でパンが売られているのだから足を止ても何も不思議はないのだが、本当に「ぴたっ」という擬音がその場に浮かんできそうなくらいの勢いで足を止めたので、印象に残ったのだと思う。
私自身は疑り深い性格で、「お買い得」のような言葉には惹かれないから、より強くそう感じたのかもしれない。
印象に残ったものは記憶に強く刻まれる。
もし今後自分がパンの店頭販売をすることがあったら、効果的だと信じて声高に値段を言えるのではないか、と思ったほどだ。
イタリア料理屋に着くまでそんなことをぼんやり考えていた。

ところが、注文したキャベツと豚ひき肉のペペロンチーノを食べながら、昔のある記憶を思い出して愕然とした。
大学院で細胞を相手に毎日実験していた頃の話で、ある日、良い実験結果がでた。
指導教官も喜んでくれ、ひとしきり結果の解釈や今後の実験予定について話をした。
数日後、結果の再現性をとるべくもう一度同じ実験をしたら結果がちがう。
何か手順ミスをしたのだろうと思って、もう一度、今度は慎重に確認しながら実験をした。
でも一度目の結果は再現されない。
結局、何度やり直してもダメで、やがて諦めた。
よくある話だ。
条件を変えて何度かトライしていくうちに安定して良い結果が出るようになることもあるので、一度ダメでも引き続きトライするのは悪いことではない。
しかし同時に、いつまでも結果の出ない実験を続けてしまっては、時間と労力と人生をムダにしてしまう。
撤退する時期を見極めなければいけない。
そういう意味で、一度目に良い結果が出たのに、それをそのあと再現できないのは危険な状態だ。
なまじ一度喜んでしまったばかりに判断が遅れてしまう。
一回の結果は、一回分の証拠に過ぎない。
前を歩いている人が客寄せの言葉に劇的に反応したからといって、それは一人分のデータだから、それで何かを言ってはいけない、というのが科学のやり方だ。
別に日々の生活に科学のやり方を当てはめなければならない理由はないし、そんな面倒なことをしないほうが快適に暮らせる。
ただ、印象的な出来事だからといって特別視しないよう訓練されたと思っていた自分が、前を歩いていた人の行動に易々と引っ張られてしまったことが意外で、そのことがまた印象に残り、今ここでnoteに書いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?