いくつかの可能性
姉はわたしと違ってちゃんと社会に適応している。
大学を卒業してからはずっと会社勤めをしていて、マーケティングのようなことをしているらしいが、何度仕事内容を聞いても覚えられないのでよく知らない。
姉曰く、会社の大きな会議で、発表者が答えに窮するような質問をするのは女性が多いらしい。
これは何も発表や会議の進行を邪魔しているということではなく、疑問に思ったことや、放っておくと部署全体が困るようなことを、わざわざ挙手してまで大勢の前で質問する男性は少ないという意味である。
つまり、大事なことを余計な気遣いなしに発言できるかどうかということだ。
業界や組織によって、こういった発言が認められやすいかどうかは、かなり異なるのではないかと思う。
私の属している界隈は、流れなんぞ知ったことではないという感じでみんな容赦なく質問する。
科学的真実が一番大切だと言う建前があるので、質問にいくら腹を立てていいても、鋭い質問を歓迎しない研究者は「格好悪い」と多くの人が思っているからだ。
そもそも「そういう空気」なのだ。
さて、ここでの命題は「姉の会社で『困った質問』をするのは女性が多い」である。
この命題の解釈としてはいくつか考えられる。
1、単なる姉の思い込みであり、男性と女性の比率は変わらない
2、そういう発言をする男性は許容されず、淘汰される。
3、そういう発言をできない女性は許容されず、淘汰される。
他にもあるかもしれないし、上記の三つのうちどれが正しいのか私にはわからない。
それ以上の「エビデンス」を持たないからだ。
持たない以上、何らかの結論を出すことはできない。
そういう場合、全ての有りうる可能性を考えたところで、それ以上の解釈は保留にすべきだ。
テレビの討論番組などで、議論は白熱しているけれど平行線のまま終わるのは、双方がはっきりとした証拠を出せていないか、証拠をつきつけられても相手が折れないかのどちらかである。
証拠が出ている場合は、見ている人が判断すればいいことだけれど、そもそも必要な証拠が出ていない場合が多い。
出ていなくても、話し合いを通して、自分の考えもしなかった解釈と出会えることもあるので、無意味ではない。
どれが正しい解釈なのか、答えが出ないだけである。
さらに言うと、社会のルールを決める場合、全てエビデンス(証拠)に基づかなくてはならないかと言うと、そんなことはないと思う。
客観的な証拠を集めて事実を明らかにするのは科学的手法の基本であって、それを社会全てに応用できるわけではないし、社会を形作る規範が、科学的手法によって集められた証拠に基づいることは少ない。
むしろ、規範とか基本的な方針みたいなものが決まった上で、どうやって具体的に運用するのかを考える段階になって初めて、科学的知識や科学的手法は有効である。
全てを非科学的に考えたり、逆に、全てを科学で解決しようとしたり、あるいは、科学的でないものを科学だと偽ることで、社会と科学の隙間が広がっていく。
研究者は、どうやったら科学を社会の中で有効に使ってもらえるのか。
反対に、社会側は、どうやったらうまく科学を使えるのか。
それはもう、最終的に、「教養」の話になってしまう。
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