独学研究のススメ(研究は適度に手を抜こう)

〇年代順や順番でやる必要はない

これも「本や資料を全部読まない」に通じる話題です。
 
書いて字のごとく「好きな順番、手の付けられそうな時代や年代からやっていくといいよ」という事です。
 
たとえば、ある人の生涯や何やらを辿る場合、「誕生→成長→活躍→死去」という形で追わねばならない――と考えている人は一定数居るでしょう。確かにWikipediaやら自伝の記事は、基本生れて死ぬまでの流れになっています。
 
しかし、それは最終稿でやればいい話で、その前段階である調査・研究の場合は別に「生れて死ぬまで」とか「誕生して今に至るまで」といった順列を追う必要は全くないのです。
 
すごい極端な話ですが、「死ぬところから生まれる所まで」をさかのぼっても全く問題ありませんし、その人や事象の黎明期や活躍期、あるいは没落から調べても別に問題ありません。
 
何度も言うようですが、知識とはパズルのピースみたいなもので、一つだけでは余りにも限定的過ぎてその力も大したことはありません(雑学とかはともかく)。

そうしたピースを集め適正な所にあてはめていく事で、一つの作品・成果が成り立つわけです。
 
パズルをやったことがある人なら分かるでしょうが、その揃える位置はどこからだって構わないのです。
 
右端からそろえる、左端からそろえる、上からそろえる、下からそろえる、真ん中からそろえる、そもそもパズル台に向かわず、まずはパズルの接合部を探してひとまとまりの部位の完成を目指す――パズルのやり口は十人十色であるように、最終的に完成を遂げたものが偉いわけです。

律儀に右端から並べてパズルに飽きて投げてしまう人よりも、すごく変なパズルの集め方でもきっちりと最後のピースを埋めて、パズルを完成させる人の方が絶対的に立派です。

裏を返せば、「順繰りに調べないと研究が成り立たない」「流れを意識しないと成り立たない」という意識にとらわれ過ぎて、研究を最終的に放棄してしまう人は、まさに前者の「律儀に並べてパズルに飽きる」という行為と同じ事になります。

昔の言葉に「細工は流々仕上げを御覧じろ」というのがありますが、その手段や成立は個人の自由なのです。仕上げ――即ち、目標の達成こそが一番大切なのです。

「その人の生涯や本の項目順に調べていかなくては!」
 
という固執はすぐに捨てましょう。

〇好きな資料を率先して読む。必ずしも原典から手がける必要はない。

そして、「好きな資料を率先して読む。必ずしも原典から手がける必要はない」。意外かもしれませんが、これも研究を長引かせる秘訣だったりします。
 
確かにある研究領域においてバイブルと呼ばれる書籍は存在します。
 
 経済学の「資本論」にせよ、哲学における諸哲学者の執筆作品、文学における文学史や評伝など、これを基盤にして論理を展開していく事は学界の常識でもあります。

「これを読まない奴はモグリ!」みたいな意見がまかり通るのは、それだけバイブルに力があるからと言えるでしょう。
 
このバイブルが無いと滅茶苦茶苦労します。

事実、私のやっている漫才研究はバイブルというバイブルが殆どなく、断片的な歴史や資料しかないので滅茶苦茶苦労しました。

何とか持論を練り上げる所まで至った今思い返してみると、トンデモナイ遠回りばかりしています。無駄だらけです。
 
それを考えると、バイブルがあるという事は一定のランクや理解度まで一気に上昇させてくれるメリットがあります。

言うなれば最適解で色々なものを教えてくれる教科書のようなものですね。
 
しかし、それらのバイブルが読みやすいか――といわれると、非常に困ります。

「資本論」を読破して理解している学者はまあ少ないでしょうし、他にもバイブルを全部読みこなして完璧に理解しているか、といわれると非常に困ります。
 
特に、哲学系や思想系は「嫌がらせか?」というレベルで、難解な展開をしてくる場合もあります。

中には「これ知っている前提で話します」「お前らこれ知ってんだろ」という前提でいきなり話を斬り込んでくるのもあります。論文とかは前提知識ありきで話してきたりするので、相当注意が必要です。
 
うかつにバイブルに近寄ろうものなら、火傷する場合は多々あります。
 
語学を学びに講義室に入ったら、全く理解し得ない言語を話す先生たちがいきなり知らぬ言語で質問責めにしてくる――そんなシチュエーションに遭遇するようなものです。
 
全くわからないし、対話もできない、聞くにも聞けず自分の無力さを胸の内で嘆く――うかつなバイブルの読破はそんな心の傷や諦めを生み出す原因となるので、「今読めるかどうか、読むだけの知識や考えがあるか」と自己反省をしながら、挑戦してみましょう。
 
そんなバイブルや関係書を読み解くためにあるのが、「入門書」や「新書」です。

「入門」と書いて字のごとく、その思想や学問、人物や事象にまつわる出来事、語録、流れ等を読み解いていくものです。「小学生でもわかる」「15歳からの○○」みたいな本は多々あるので、知っている人もいるでしょう。

研究者からすれば「そんなの知っていて当然だろ」という前提知識を優しく教えてくれます。

「これはどういう事なんだろう」という根本的な問題や疑問にすっと手が届くように説明されている本も多く、「なるほど、こういう事だったんか」「この概念はこういう意味を有しているのだな」と、それらしく理解を身に着ける事で、新しいステップへと移れるのはいうまでもないでしょう。
 
バイブルや名著がなおざりにしている点や前提を分かりやすく読み解いてくれるのが、入門書の最大の機能といえましょう。そこから読み始めるのは何も恥ずかしい事ではありません。
 
料理を学ぶ際にレシピ本を買ったり、スポーツをはじめるにあたってルールブックを読む、新しい商品を買うのでレビューを見る――そんな感覚と同じであり、「入門書しか読めてないから恥ずかしい」とかそんなわけはないのです。

最初は独学研究のルールを覚えるまで、じっくりと取り組むべきなのです。
 
ただ、ここで気を付けるべきは、

「如何に好きな資料とはいえ、変な新書やイカサマ本に騙されないようにする」

事です。

東京漫才のサイト

https://tokyomanzai0408.com/

上方漫才のサイト

https://kamigata-manzai-shi.com/

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