古甲州道、五日市は西党一派平山氏だらけだった!!!
だいぶ間が空いてしまいましたが、古甲州道シリーズの前回、滝山の続きです。
府中、日野、滝山と、古甲州道を、日奉宗頼を祖とする武蔵七党西党の道だ、との発見に基づきexploreしてきました。
今回は滝山の先、五日市です。
古甲州道は、滝山から滝山街道を戸吹まで行き、戸吹からは秋川丘陵越えとなって、上川霊園から秋川に下り、以降は概ね旧五日市街道と重なります。
今回はこの辺りで、西党の痕跡をexploreしてきました。
結論はタイトルの通りです。
いやはや、西党平山氏だらけ、でしたよ、ホントに。しかも三次元的に。
まずはこれ、1191年、平山季重が開基となった大悲願寺です。
五日市町史によれば、
"開創に関しては聖徳太子が全国行脚の際、この地に一宇の草堂を建て、それが元であるとの伝承もあるが、それはとにかくとして、現在も寺の後方の山合いに「草堂の入」という地名が残っていることからみれば、古くから何らかの草堂のあったことはうかがえる。史実としては建久二年(一一九一)、源頼朝が檀越となり、洛陽の人と言われる澄秀を開山として、平山季重が創建したという寺伝に目安をおくべきであろう。"
ということで平山氏が登場ですね。
源義朝・頼朝の時代に多くの武勇伝を残した平山季重、日奉宗頼の曾孫宗綱の子直季の子です。
次は平井の子安不動堂です。
こちらも平山(日奉)盛吉が1381年に祈願所として開創し、1445年にはその子孫平山綱景が鳥居を建立しました。
この平山盛吉は、
5年後の1386年に、日の出町に大久野山祇社を創建しています。
1390年には、平山景時が、平井に八幡神社を創建しています。
更に、1409~1439年には、平山氏が属した武州南一揆宛に出した足利持氏の恩賞状が、阿伎留神社に残っています。
まだまだ続きますよ、1502年、平山氏、祈願所として大光寺開山
1527年、日奉宗連、引田大宮神社再興
1559年頃、平山氏重、玉林寺再興
1558〜69, 日奉朝臣平山右衛門大夫氏重、引田八雲神社創建
はい、どうですか。
だらけ、だし、三次元的、というのもお分かり頂けたと思います。
源義朝・頼朝、足利氏満(鎌倉公方: 1367〜1398年), 足利持氏、山内上杉家(足利持氏後、北条に組する前: 1546年の河越夜戦まで), 北条、と、主君を変えながら、平安後期から江戸時代直前まで、脈々と生き長らえてきたことが分かりましたね。
さて、平山氏最後の当主、平山氏重ですが、1590年の秀吉小田原征伐で主君北条氏照の八王子城が落ち、檜原城主平山氏重も自害し平山氏は滅亡します。
この辺りは次回以降ですね。