日本のシルクロード、柿生、竹花、日野往還
日本のシルクロードシリーズ、前回が最終回と宣言したのに、早速追加です。
このシリーズでは、初回を鑓水、蚕影神社本社で中締めし、横浜を最終回とする、と、決めていました。
実はこの日野往還は、前回横浜の帰路に使おうと思っていたんですが、秋の日は釣瓶落とし、間に合わず、今回となったのです。
津久井道で柿生まで。
正に津久井道シリーズで、柿生と養蚕の関係について詳しく説明していました。以下、要約です。
昭和初年の柿生の養蚕年表には、文化10年(1813)に、江戸の呉服商55人が、八王子仲買人を通さないビジネスを始め、それにより、津久井の生糸や絹織物が、津久井道を通って江戸に流れるようになって、津久井と江戸のちょうど中間で、且つ、当時の1日の歩行距離30kmより少しだけ短い25kmだった柿生は、宿場として適していて大層賑わった。
1859年に横浜が開港すると、生糸は江戸ではなく、柿生から日野往還で神奈川に流れた。
1872年に新橋〜横浜間の鉄道が開通すると、生糸輸送は鉄道となり、再び、生糸は江戸に向かった。登戸の大道橋とそくざしの話は明治20年、1887年なので、この間の話であり、整合する。
1889年に甲武鉄道が八王子〜新宿間で開通後は、再び、生糸は、1813年以前のように、八王子に向かった。
正に、津久井道も、本日ご紹介する日野往還も、絹の道だった、ということです。
では、この辺りの養蚕痕跡を巡ります。まずは上三輪の熊野神社です。ここには、上三輪養蚕組合が建立した石碑や蚕蛹供養塔があります。
岡上に入り東光院です。ここには嘗て、生田緑地の日本民家園に移築されましたが、蚕影山祠堂がありました。
岡上を西へ、小田急を越え金井に入って、金井井戸窪梅の木公園付近のピークには、堅牢地神、馬頭観音、そして蚕神が集められています。
津久井道に下り、大蔵の交差点を南へ。鶴見川を春日橋で渡ったら、春日神社があります。
ここにある弁天堂でも養蚕祈願が行なわれていたそうです。弁天様 = 蛇 = 蚕を食べてしまう鼠を食べてくれる、ですから。
また、公式サイトによれば、関東大震災の正にその日が大鳥居の奉納お披露目日だったのですが、地震の際、近所の桑畑に逃げ、皆無事だったとのこと。やはり周りは桑畑だったんですね。
鶴見川を渡河し、鶴見川北岸の台地に上ります。
国士舘の前を通り、広袴に下って行きますが、ここに、妙全院があります。
ここの御本尊は糸引観音で、以下の伝承が残ってます。
"平安時代、楓王女、この地に流罪になり、糸を紡ぎ終われば都へ帰れるということだったが、どれだけ紡いだら、の、話が無かった。なので都に帰れず、これも運命と、25体の観音様を彫ったとのこと。
後にこの伝承が養蚕と結び付き、養蚕守護神として信仰を集めた。"
この先、武相荘を通り過ぎますが、武相荘も養蚕農家建築です。
さて、ぐるっと回って柿生・竹花に戻ってきました。ここからは、日野往還を南下します。
日野往還沿い、迅速測図や今昔マップで確認すると、桑畑が集中しているエリアがあります。麻生・早野、市ヶ尾です。ここを訪れます。
まずは麻生・早野です。
月読神社の南側は桑畑で、この中に、麻生不動院があります。
ここでは毎年1/28にだるま市が開かれます。ダルマと言えば養蚕守護神の1つです。
その先の早野子ノ神社も桑畑の中にありました。
この早野子ノ神社は、意外といっては失礼ですが明徳元年(1390年)に勧請という古社です。
子ノ神社が養蚕守護神というのは、鑓水に例がありましたね。
また、大正年間に富士浅間神社、稲荷社、八雲神社を合祀ということですから、浅間様、稲荷様も、養蚕守護神として、崇められていた可能性があると思います。
先を行きまして、市ヶ尾です。
何の変哲も無い商店ですが、ここに歴史有り。
ここは、市ヶ尾をはじめとする鶴見川流域の村々で指導した養蚕教師水野平三郎が興した会社、武蔵蚕業金城社だったんです。家業は変わってますが、残ってるんですね。スゴイ。
朝光寺には、水野さんへの謝恩碑が建てられていますが、行くのを忘れてしまいました。秋の日は釣瓶落とし、帰路を焦ってたからですね。
帰りは荏田まで大山道で、荏田からは古道ではなく新横浜元石川線、向ヶ丘遊園駅菅生線で登戸宿に行き、登戸からは品川道で帰ってきました。日没の45分前に到着しました。
如何でしたでしょうか。
養蚕指導者だった水野さんは尾張の人でした。ここに根付いたんですね。
世界一の生糸輸出国となった日本。生糸の出荷の90%以上が横浜港でした。
尾張よりも市ヶ尾の方が、力を発揮できた、そういうことでしょう。
さてこれで本当に日本のシルクロードシリーズ最終回です。
最後に、bloggerの方に掲載した記事のリンクもここに貼っておきます。
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