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大山道シリーズ番外編、曽我丘陵・渋沢丘陵の名も無き村道

大山道シリーズ番外編、これまで、

と、来ました。

そして今回は、曽我丘陵と渋沢丘陵の名も無き村道です。

名も無き村道とは、ですが、迅速測図でハッキリと確認できる片実線片点線の村道なんですが、風土記に記載が無い道なんですね。

曽我丘陵と渋沢丘陵の山の中に、ポツンポツンとある集落を繋ぐ村道なんですが、今回はこの道をノンビリと景色を楽しみながら、サイクリングしたいと思います。富士山はよく見えるはずです。楽しみ!!


新松田駅まで輪行、曽我道で走った、嘗ての県道クラスの大道、今は神奈川県道72号線を、旧道を選びながら上大井まで。

富士山が美しいですが、後でとっておきが見れますから、スルーします。

上大井から曽我丘陵に上り、名も無き村道は、おおいゆめの里に向かっていきます。

名も無き村道が幅一間で残ります。
足柄平野越しの真鶴半島
とっておき、のはずが、雲が・・・
大山、丹沢山塊は見事な眺望

ということで、富士山の眺望は残念でした。

さて、おおいゆめの里の東は赤田の集落です。

迅速測図を見ると、山奥にポツンとある集落です。風土記によれば民戸48とのこと。

歴史的農業環境閲覧システムより、十字マークの直上に赤田村を配置しました。赤田村の周辺は、東西南北、人っ子一人住んでませんね。村道が2本確認出来ます。1つは西から来ているもの、この道を今来ました。もう1つは南東に向かうもので古怒田に至ります。

こんな所に、何故、と思いますが、赤田村の鎮守、八幡様は、1157年の鎮座とのことで、かなり古くから存在した集落であることが分かります。

赤田八幡社、五所八幡宮との関係が深く創建年も同じで祭礼には神輿を出していたということです。文亀元年(1501)の修理棟札は中村貞常の名でした、中村党の末裔でしょう。享禄三年(1530)は後北条氏家臣関新三郎時長、天文二十四年(1555)はやはり後北条氏家臣猪熊因幡守長重です。北条早雲が小田原城を奪取したのが1500年頃、相模進出統一したのが1516年で、1590年に、秀吉小田原攻めで滅亡してますから、それが現れてますね。
別当の大綱院、1392年一庵を営す。中村党支配時代ですね。

また、ここ赤田村は、風土記によれば、天正18年1590年大久保忠世、慶長6年1598年米倉重種に賜り、とあります。大久保忠世はこの前の大河にも出ている徳川十六神将の一人で小田原城主、米倉重種は、武田家最後の当主、武田勝頼の嫡男、武田信勝の供養を高野山で執り行った米倉種継の子。叔父に足軽大将だった忠継がいる。つまり、元武田氏家臣の重臣。1582年の武田氏滅亡後、徳川に仕え、この土地を与えられたんですね。

整理すると、

  • 平安後期、ここは、中村党の領地でした。中村川を遡って、中村川の支流から赤田村を開発したんでしょう。

  • その後、和田合戦で大打撃を受けますが、北条早雲が進出してくるまでは何とか生き延びて、

  • しかし、1500年過ぎには後北条氏に入れ替わり、

  • 秀吉小田原攻めで今度は徳川に入れ替わり、

  • その後、徳川家臣となっていた武田氏家臣米倉氏に受け継がれた、ということですね。

しかし、まぁ、山の中のポツンとした集落です。領地を与えられたと言っても、ね。現実はなかなか厳しいです。

赤田の集落を後にし、赤田橋で東名を越え、高尾の集落に入ります。

風土記によればここも赤田村と同じ経緯で、嘗ては武田氏家臣米倉重種の領地でした。

ここは中村川のほぼ最上流部で、中村川下流からずっと中村川沿いを来た県道77号の旧道も、迅速測図ではここが終点になっています。風土記によれば民戸24と、赤田村の半分です。ここもポツンですね。

歴史的農業環境閲覧システムより、十字マークに注目していただき、右から村道が、中村川沿いに来ていますが、十字マークから、村道が南下し赤田村へ達しているのが分かりますね。この道は今来た道です。
鎮守、金山社、創建詳らかならず、ですが、赤田に金山社ですから、産鉄エリアなんですかね。
金山社境内から高尾の集落、それにしても勾配がキツイところでした。
別当の清雲寺、天文四年(1535)起立、ということは、米倉重種が入ってから開発されたのではなく、それ以前から、少なくとも後北条氏の時代から成立していたということになります。
清雲寺から南の眺望、すっかり曇ってきました

さぁ、中村川を下ります。程無く、鴨沢です。

風土記によれば、ここも赤田村、高尾村同様の経緯で、武田氏家臣米倉重種の領地でした。

また、ここには、曽我兄弟の従者だった、松原鬼王丸と富田段三郎の墓があります。ここから古怒田を経由して曽我の里に抜ける村道もありますね。中世からの道ということになります。

松原鬼王丸と富田段三郎の墓

1193年の曽我兄弟仇討ちと1598年の米倉重種への采地が400年の時空を越えて交錯している感じがします。

その中村側のを挟んだ眼の前には、大泉寺があります。

大泉寺

この大泉寺は、後で出てくる井ノ口の米倉寺の末なんですが、大泉寺という寺名、武田信玄の父、信虎の菩提寺が大泉寺です。米倉氏は代々甘利氏に仕え、甘利氏は武田信虎、信玄、勝頼に仕えてましたから、米倉氏がその名を持ってきたんではないでしょうか。

また、北条早雲が相模国進出の足掛かりとした鴨沢城址があります。

結局、相模を制覇し、家臣に赤田の八幡様を管理させたんですから

雑色に入ります。

風土記によれば、ここは、天正19年1591年、武田氏家臣曲渕吉景に賜り、となっています。曲渕吉景も、米倉氏に負けず劣らず、武田家家臣の重臣でした。板垣家臣団の筆頭で足軽大将、後、信玄の直臣となっています。

またしても武田氏家臣ですね。

いやいや予想外です。ノンビリと富士山の眺望を楽しもうかと思ってましたが、まさかの、武田氏家臣が続出です。

玄張寺

この寺は、文禄年間(1592 - 1596), 武田氏家臣、曲淵吉景ノ四男、吉資が、父吉景の刀葬地として一宇を建て開山というお寺です。

また、五所八幡宮の元宮、子ノ神社があります。

五所八幡宮略縁起によれば、

"後白河天皇保元2年(1157)比叡山延暦寺の高僧慈恵大師の門人なる僧義圓東国行脚の折、雑色村子の神の祠に一夜の宿を借り霊夢により白鳩に導かれて現在の地、龍頭丘の杜に至り、ここに現われた童子(御主祭神誉田別尊)の霊言に従って勧請したと伝えられる。雑色にはこの時義圓の挿した杖がその後成長したとされる樹齢8百数十年の槐の大木がある。"

槐の大木、もうお社は無いみたいですね

と、いうことです。

先を行きましょう、中村川の北岸に渡って、渋沢丘陵に向かいます。

松本の集落に入りますが、風土記によればここも、天正19年1591年、曲渕吉景に賜り、ですね。

まずは諏訪神社

諏訪神社、ネットを検索してもさしたる情報無し、風土記にも、単に村持ちとしか記載が無いですが、恐らく、曲渕氏が持ち込んだんでしょう。

そしてここ松本には泰翁寺があります。

泰翁寺

風土記によれば、元岩倉村にあり、開山瑞秀永正13年(1516)没、青木尾張守信時天正18年(1590)没が開基。

この青木信時、始め武田氏に仕え、とあります。青木信時は、川中島、三方ヶ原の合戦で大活躍した信親の子です。青木氏は、先の米倉氏、曲渕氏も属する武川衆の頭領とも言える立場でした。

また、岩倉村には嘗て善了院弥陀堂があり、慈覚大師円仁作の武田信玄守護仏が本尊だったとあります。青木氏が持ってきたんでしょう。

松本は曲渕氏、岩倉は青木氏、共に元武田氏家臣の領地だということになります。

その岩倉です。ここには白山神社があります。

白山神社、にしても猪の掘り返しの跡がスゴイ

青木信時の地元韮崎には菩提寺常光寺がありその周辺にも白山神社があるといいます。持ってきたんでしょうね。

この後、栃窪までは人っ子一人住んでないエリアとなります。

集められた石塔群越しの大山、意図してここに集めたのかもしれません。
凸凹とした箱根外輪山
旧道は情け容赦無いですね。
丹沢山塊が見えます
秦野盆地と大山

栃窪から折り返して再び中村に向います。

栃窪スポーツ広場の先の川沿いの旧道は完全に廃道で、増珠院まで迂回しましたが、その先もこんな感じで幅一間の名も無き村道でした。
箱根外輪山

境別所を経て境に至り、ここに、宗玄寺があります。

宗玄寺

曲渕吉明が開基。風土記によれば、ここ、境村は、一部、古は曲渕筑後守吉清の領地ということです。同氏の屋敷もあったようで、雑色、松本同様、ここも武田氏家臣曲渕氏縁の地ですね。

須賀神社、曲渕市左衛門が創建

その後、井ノ口に至ります。ここにある米倉寺も、赤田村、高尾村、鴨沢村の領主だった武田氏家臣米倉一族の菩提寺です。

米倉寺、風土記によれば、井ノ口村の石野氏領地は、天正18年1590年、米倉丹後守重継に賜り、です。

如何でしたでしょうか。

いやぁ、曽我丘陵、渋沢丘陵の名も無き村道は、意外や意外、1582年に滅亡した武田氏の家臣に与えられた領地を結ぶ、武田氏家臣ネットワークでしたね。

登場順に整理すると、

  • 赤田村、米倉氏、1598年

  • 高尾村、米倉氏、同上

  • 鴨沢村、米倉氏、同上

  • 雑色村、曲渕氏、1591年

  • 松本村、曲渕氏、1591年

  • 岩倉村、青木氏、?

  • 境村、曲渕氏、1591年

  • 井ノ口村、米倉氏、1590年

井ノ口はまだマシなように思いますが、領地を与えられたと言ってもポツンとした山奥です。

米倉氏は、大山の麓に位置する堀山下にも、1590年、領地を与えられていますが、こちらも山奥です。

武田氏が滅亡して、徳川に召し抱えられ、領地を与えられたと言っても、現実は厳しかったということでしょうか。

この、名も無き村道をネットワークに、お互い、助け合ったんでしょう。

さて、今日走ったエリアの東側は土屋の集落で、土屋は武田氏と縁が深いんです。

今日走ったエリアと土屋も含むエリアは中村郷で、平安後期から、中村党の領地でした。

中村党の頭領は中村荘司宗平で、その息子たちは、三男土屋三郎宗遠、四男二宮四郎友平、五男堺(境)五郎頼平で、姓を見れば分かる通り、この辺りを領地としていました。

三男の土屋三郎宗遠は始め男子がおらず、親戚の岡崎四郎義実の男子を養子とし義清と名付け嫡男としていました。

この義清は、和田合戦で討ち死にし、義清の筋は滅亡しますが、義清を迎えた後に出来た実子、宗光の筋は継続します。

が、1416年、上杉禅秀の乱で領地没収となり、駿河や甲斐に流れ、しかし、甲斐で、武田氏の下、頭角を現しました。

もしかしたら、こうした縁があったので、家康は、武田勢に、土屋の隣の領地を与えたのかもしれません。

天宗院、土屋惣領分にある、別名落ち武者寺。武田氏家臣が落ち延び土着して開かれた寺との伝承があります。惣領分は秋山姓が多い。秋山と言えば、武田二十四将の秋山信友です。
愛宕神社境内の牛頭天王社、惣領分鎮守、秋山一族で祀る天王様


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