「想像力とモノサシ」について(くまさん)

こんにちは、ヨガマットさんです。

こんな曲を作りました。よかったらご覧ください。


よく、「想像力の欠如」ってフレーズに出会います。

「すこし考えればダメだってわかるのに○○してしまうだなんて、想像力が欠如している!」みたいな感じで。

その度に、「想像力」ってなんだろうって思います。

もしかしたら、○○してしまったのには、その人にとってはものすごく筋の通った重大な理由があったのかもしれない。

だとしたら、想像力が欠如してるのは、どっちなのでしょう。


これだけでなく、あんまり背景を考えずに好き放題言ってしまうこと、ありますよね。

ヨガマットさんの中の人も、これで「失敗してしまった…」と反省することがよくあります。


「何か一つの物事を考える時には、あらゆる可能性や、それぞれの背景を見つめて、たくさんの角度から考えてみるべき。」


そんなことはよくわかる。わかってるけど、なぜかできないときがある。

何が邪魔をしちゃうんでしょうね。

人にはそれぞれ自分の中で確立しているモノサシがあって、そのモノサシで図っている。でも、そのモノサシは、人によって長さも、形も違うもの。

よく言われることだけど、多分こんなところなんだろうな。

このモノサシがはっきりしていればしているほど、いろんな背景に考えを巡らせることが少なくなるのかもしれない。

となると、やっぱり「想像力が欠如している!」って断定してしまうのは、ちょっと怖いことなのかもしれない。


でも同時に、モノサシがはっきりしていないってのも、当人にしてみれば、とっても怖いことなのだとも思います。



くまさんは、すごく杓子定規に見えるけど、実は、モノサシがはっきりしていない人(…くま?)だと思われます。

はっきりしないから、はっきりしていれば楽なところでも、辛かったんだろうな、って思います。

だから、時計が自分を導いてくれてるって信じていて、「適切なタイミング」ってモノサシをとっても大切にしています。そんなくまさんはとっても幸せそう。


でも、くまさんは本当に時計があるから幸せなのかな。


多分、くまさんを幸せにしているのは、モノサシを共有してくれるミクさんが一緒にいることなんじゃないかなって。

そして、モノサシが共有できるのは、くまさん自身が、「適切」とか、「ちょうど良い」とか、はっきりとしないモノサシ…いつまでも試行錯誤ができて、いつでも長さを変えられるモノサシを持っているからじゃないかなって。

「何分何十秒」とかだと、だれも口を挟めないけど、「遅くもなく早くもない」だったら、一緒に考えられるものね。


くまさん自身が気づいているかは知らないけれども、くまさんは、とっても想像力が豊かなのでしょう。


くまさん、お幸せにね。


くまさん
詩:ヨガマット

くまさんは時間を気にしてる
遅くもなく早くもない時を
適切なタイミングがあるって
頑なに信じている

くまさんは時計を見つめてる
短くもなく長くもない時を
ちょうどいい長さで終わるように
きっちりと数えている

ねえくまさん
私の隣で時計を見つめる君は
なんだかとっても幸せそうに見えるよ

くまさんは時間を気にしてる
遅くなく早くもない時を
適切なタイミングがあるって
頑なに信じている

ねえくまさん
あの日独りで涙が止まらない君に
今でもかける言葉は見つからないよ

きっと、
早すぎて、遅すぎて、
長くて短かいことがあったんだね

くまさんは時計を見つめてる
回り続ける針がぼくのこと
いつでも導いてくれてるって
本当に信じているのね

くまさんは時間を見つめてる
巻き戻すことはできないけれど
もう二度と目を離しはしないと
まっすぐに想っている

くまさんは時間を気にしてる
遅くもない早くもない時を
適切なタイミングがあるって
頑なに信じている

(おわり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?