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もうボウリングの名前登録でボケる歳じゃないかもしれない

あと1年ちょっとで、10代が終わる。
薄っぺらい人生だったけど、振り返れば色んなことがあったなと、おセンチになってしまう今日この頃の私である。
眩しく青かった時代はどんどん翳りながら、私を薄暗くジメジメした部屋に導いていく。

「あのころ 僕達はさ なんでもできる気がしてたね。」
うるせえよ瑛人、黙れ。あとあれ何だよ、お前の新曲。明らかに『こちら側』に媚びと喧嘩を売っているだろ。リリースする前から賛否両論なことが目にみえてただろ。

まあ確かにその通りではある。
なんでもできる気がしてたあの頃、僕たちはボウリングの名前登録でボケていたんだから。


ボウリングに行けば、僕たちは名前登録の段階で必ずボケていた。
クラスの可愛い子の名前や、今では口にするのすら気が引けるド下ネタ、「ゴンザレス」みたいなインパクトのある(当時では面白いと思っていた)外人の名前。
「もうすぐ楽しいボウリングが始まる」という高揚感からか、「友達に面白いと思われたい」という意識からか、僕たちは名前登録でボケずにはいられなかった。
隣のレーンからの冷たい視線なんて関係なかった。僕たちのレーンには、僕たちだけの世界があって、周りは見えなかったんだから仕方ない。

今、そんなことはできるだろうか、と考える。
今ボウリングの名前でボケるなら、「概念」とか「松木安太郎」とか、少し背伸びをしてボケちゃう気がしてならない。それこそ、あえて「瑛人」とかを登録してしまいそうで、自分の心の傾きを感じてしまい、いささか嫌な気分なってしまう。
もう、あの頃のバイブスは自分にはないのかと想うと、悲しい。

ユーモアに目くばせをしたような言葉より、高校生のころ「これが面白い」と心から信じてノータイムで登録した名前の方が、邪気がなく澄み切っている。
好きな女の子の名前やら、下品な言葉が並ぶあの頃の得点票のパネルは、醜くて情けなかっただろう。だが、そこには我々の青春が確かにあったのだ。
制服が着れない、とか 体育祭が無い、とかよりも、精神の微妙な変化によって、本当はまだできるはずの事ができなくなってしまったことの方が悲しく思えてしまう。

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