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二章──逃走と皐月荘、そして約定


 鮮やかな燈色を見せていた空に黒のカーテンが敷かれ、地上を照らしていた光が遮られる。
 政令指定都市に選ばれる程に人が集まり、相応の発展を遂げてきた街並みは人工の輝きに満ち溢れ、カーテンからの木漏れ日を遮断。代替として天を穿つビル群が窓や看板からネオンの彩りを地面に与える。
 道路を走る乗用車の数も相応に多いものの、交通マナーがいいのか隙間も目立つ。それこそ小回りの利く自動二輪であれば、縫って駆け抜けられる程。
 
「アハハハハ。なんだ、中々慣れるといい感じじゃあないですかぁ。依頼が終わったら免許でも取ってみますかぁ?」
「ゆ、由来木屋ッ。前を見んかッ」
 
 眼前に迫る乗用車を、車体を傾けることで回避して、道路交通法を幾重にも無視した少年少女が夜道を疾走する。即ち、逃走者たる由来木屋帳と山城朝日の二名。
 バイクを奪った当初は運転がぎこちなかった帳も、今では肌を撫でる夜風を楽しむ余裕すら持ち合わせていた。ヘルメットを着用していないが故に、インナーとカーゴパンツを着用している状態でも十分に疾走感を堪能でき、白髪を存分にたなびかせている。
 これで乗用車の波と不良の集団から逃れるためというお題目がなければ、無免許のドライブを気兼ねなく楽しめたのだが。
 
「テメェ、待ちやがれ!!!」
「おい退けよ、そこの車ぁ!」
 
 遥か後方から鼓膜を震わせる音はひたすらに喧しく、バイクによってもたらされるあらゆるプラス要素が滑り落ちていく。歯を覗かせて破顔していた帳も、現実に引き戻されるように目つきが冷める。
 帳は静かに、喧しい後方を振り切るかの如くハンドルを捻った。
 
「うおぉ。由来木屋ッ、突然飛ばすな、驚くではないか!」
「すいませんねぇ。ま、そろそろ着くのでもう少しの辛抱です」
 
 加速した赤が残光を残して四輪の脇をすり抜けていく。彼らを追っているバイク乗りも追随しようとするが。
 
「おい、クソ車ぁッ。割って入るんじゃねぇよ!」
「轢き殺されてぇのか!!? あぁ!」
 
 間が悪いというべきか、もしくは中途半端にルールを順守しているからか。彼らは乗用車の波に飲み込まれ、帳達との距離が急速に広がっていく。咄嗟に暴言が飛び出すが、それで逃走者との距離が縮まる訳もなく。
 曲道を二度も曲がれば、たちまちに帳達を追うバイクは一台のみとなった。
 
「気に食わないですねぇ……あのバイク」
 
 追跡している事実を隠そうとする痕跡は伺えない。かといって何かを仕掛けてくる気配も掴めず、不気味さを覚える程に一定の距離で追随していく。おそらく、否、間違いなく運転技術は帳よりも遥かに上回っている。
 観察が目的かと勘繰ってしまうが、わざわざ手を出さない理由が不明。
 
「本当に手を出さなくていいので、嶽丸さん?」
『何度も同じ質問をしないで欲しいッス。
ひとまずは追跡。拠点を抑えてから、後は依頼人と応相談ッスよ』
「……了解」
 
 そして何故手を出さないのかという疑問を抱いているのは、バイクで追跡している猟犬も同様であった。
 他の不良よりも一回り大柄なバイク。漆黒のボディで内部機関を覆い、マフラーからは背後で運転する乗用車に迷惑な量の黒煙を噴き出して推進力を確保する。乗り込む男は小柄な体躯に見合わぬ膂力で暴れ馬の如き動力で跳ねるバイクを制動し、帳を追う。
 追跡も確かに彼の領分でこそあるが、バイクチェイスやそこからの追撃こそが本分。悪路組合から猟犬の二つ名を頂戴した所以である。
 だというのに。
 今猟犬は獲物を眼前にしながらブローカーからの指示で、逃走する帳達を傍観していた。
 
「由来木屋、このまま帰っていいのか? 振り切れていないのだろう」
「出待ちされるのは癪なんですけど、正直に言えば帰るだけなら問題ないですね」
 
 朝日も疑問を零すが、帳がそれを気にする様子はない。どこか適当さを覚える返答で腹部へ回していた腕に力が籠るが、それでも帳に変化は伺えなかった
 拠点が判明してしまえば、内部への潜入工作や大規模な襲撃、近隣への被害を省みない化学兵器の投入すら可能となる。山城の一人娘に手を出すということは、この国の四分の一に逆らうにも等しい暴挙。相手もいざとなればなりふり構わず凶行に及ぶだろう。
 そうなってしまえば、事は朝日や山城の家だけの問題では収まらない。拠点やその近隣で暮らす無辜の市民が理不尽にも災禍に見舞われ、あって当然の幸福を奪われ喪失感のみが生々しい主張を行う地獄が開かれる。本来、民に幸福をもたらすべき山城の家が、不幸をばら撒いていく。
 脳裏を過った最悪を振り払い、朝日は鋭い視線を眼前の背中へ刺した。
 
「まぁ、僕を信じて下さい。
 信じる者は救わる、みたいですからねぇ」
「……足元ではないことを祈るばかりだな」
 
 二人を乗せたバイクは疾走する。風を切り、猟犬の追跡を背中に浴びて。
 
 
 空走区の中央部を抜け、病院があった西側とは正反対の東側へと進路を取る帳達。空にかかるカーテンは光度を急速に落としていき、既にバイクの明かりがなければ数メートル先の確保も困難な領域へと達している。
 閑静な住宅街、と言えば聞こえはいいものの、その実態は地区としての盛り上がりを放棄したベッドシティの末路。都心から離れたことで下がった単価の土地を買い、ただ仕事以外の時を消費するためだけの屋根付きベッドを設置する。証拠に帳も二人を追う猟犬も遠慮なくバイクのエンジン音を轟かせていながら、多くの住宅では窓から明かりの一つも放たれない。
 どこまで行く気だよ。
猟犬が辟易し、呆れた眼差しを二人の乗り込むバイクへと注ぐ。
 走行距離は二桁キロを当に超えており、空走の端から端にかけて駆け抜けている。ここまでの道中でも一言嶽丸が命じていれば、朝日を乗せたバイクなど軽く二〇回は沈める隙が見つけられた。
 ため息を一つ。
 首を鳴らし、今も猟犬を捕捉しているブローカーへと連絡を試みる。いい加減、面白みのない追走劇へ決着をつけるために。
 
「嶽丸さん、攻撃命令を。それさえくれれば、バイク諸共あのガキを仕留めてみせます」
『逸らないで欲しいッスね。だって猟犬さんは三実から雇われてないじゃないッスか。
 金にならない仕事なんて、ナンセンスッス』
「チッ……」
 
 だったら、この仕事はどこから報酬が払われるのか。
 喉まで出た言葉を飲み込み、猟犬は渋々とハンドルを操作する。心の中に燻るものを確かに感じながら。
 
「ま、まだ着かないのか……由来木屋……?」
 
 振り子のように頭を振りながら、朝日は問いかける。目蓋は重しが吊るされているように閉じられ、時折ハッとして頭を上げるもまた自然と落ちていく。三拍子のワルツを繰り返し、朝日は就寝への工程を歩む。
 
「おやおや、子供にはもう就寝のお時間ですかぁ。もう少しで着きますし、腕の力は抜かないで下さいねぇ……っと」
 
 曲がり角を右折し、視界の正面に一際目立つ建造物が姿を現す。
 辺りに立ち並ぶ住宅から道一つ分隔てられ、どこか近寄り難い雰囲気を醸し出す建造物。横幅には目を引くものの、縦には二階分あればいい程度の規模しか見受けられない。夜目では把握できないが、住民である帳には壁が全て木製であることを知っている。
 バイクが醸し出す駆動音や金属の質感、帳自身の雰囲気とは似つかわしくない古風、あるいは時代から取り残されたような建造物へ徐々に迫っていた。
 無防備にも正門は開け放たれており、そこに泥棒への警戒心は絶無。
 故に帳達は勢いを緩めることなくバイクで正門を通り抜け、砂で敷き詰められた敷地でブレーキをかけた。その様子を追跡者である猟犬は敷地外からただ覗く。
 
「さぁ、到着しました。山城お嬢さん。
 ここが皐月荘、ひとまずはここで一夜を過ごしてもらいますよ」
「……」
 
 二人の様子を外から眺めていた猟犬はブロック塀の側でバイクを止め、三度嶽丸との連絡を取る。
 追跡は完遂した。ならば次の指示を仰がねばなるまい。
 
「嶽丸さん、追跡が完了しました。相手はどうやら皐月荘、十一月の約定で指定された場所です」
『約定ッスか……面倒極まりない……』
 
 通信先から聞こえたのは、我らがブローカーの渋い声。目標の逃げ込んだ場所を考慮すれば、無理もない話であるか。
 十一月の約定。
 遥か昔に結ばれた日本に一一の不戦地帯を設ける協定。選ばれた土地ではあらゆる戦闘行為が禁止され、詐欺も泥棒も強盗も訪問販売も新聞宗教勧誘もあり得ない日本最大の安全地帯と化す。それは裏社会において絶大な影響力を及ぼす悪路ですら侵せる代物ではなく、そして同時に彼らにとっても少なからず恩恵に預かれるが故に破る程のメリットが早々現れない法則でもある。
 
『ま、目標の居場所が分かっただけでも良しとするッスかね。
 で、付近に不良がどれだけいるか確認できるッスか?』
 
 唸る声に続くは、同業者にして商売敵の行方。
 
「辺りには……いませんね。バイクの音も聞こえませんし、下手すると誰も到達してないのでは」
『それはよかったッス。じゃあ、居場所がチクられる前に潰しといて下さい』
「金にならない仕事はナンセンスなんじゃ」
『未来の金のためッスよ』
「……了解」
 
 嘆息すると、猟犬はバイクを反転させアクセルを捻る。三実がかき集めた不良の尽くを鏖殺するため。彼自身の懐にどれだけの報酬が入るのかは分からないが、ブローカーからの命令である以上は逆らえない。
 ふと、備えつけられたデジタル時計へ目を落とす。
 電子文字で表示される時間は、八時五七分。定時を軽く通り過ぎ、残業代も馬鹿にならない時間である。
 十時には帰宅したい。漠然と考えた猟犬の視界に不良の姿が映り込んだ。
 
 
「ただいま戻りましたよぉ」
 
 玄関を開け、帳は皐月荘の中へと足を踏み入れる。目蓋が八割以上閉じられている朝日は、このままでは柱に頭をぶつけかねないとして、帳が手を繋いでいた。
 外装と同様に内部も木製であるが、一定間隔で設置されている豆電球の明かりによって多少は足元の安全が確保されている。尤も、中途半端に照らしているから端々が薄暗い上に、老朽化が進んだ廊下は幽霊の一体でも現れそうな雰囲気を醸し出していた。
 幸い朝日の意識は夢と現実の狭間。帳が手を引けば身体は無意識につき従う状態である。
 
「所々前時代的ではありますが、まぁ……山城家の誰かと連絡が取れれば引き渡せますので、それまでご辛抱を」
 
 足を踏み出す度に軋む中で、意識が曖昧な少女へ帳は言葉を投げかける。それはさながら家電に詳しくない老人へ使いこなせもしない高性能家電を押しつけようと多弁になる店員を彷彿とさせるが、聞いてない相手が悪いとでも言わんばかりに帳は続けた。
 
「トイレと風呂は突き当りの共用スペースに一つ。住民は部屋の半分くらいが埋まる程度。管理人は不在で、極たまに様子を伺うだけ。だから何か問題があったら、住民間で解決するように尽力するのが不文律。
 そして約定のお蔭で誰も手が出せないから……」
 
 自室にして共用スペースを除いて廊下の端である自室のノブを掴み、帳は違和感を抱く。
 捻れる。鍵を刺すまでもなく、本来招かれざる客を遮断するための扉がその役割を完全に放棄していた。
 露骨に眉を潜め、帳は取っ手を手元へと引き入れる。そして自身の部屋にいるであろう男へ、棘を取り除く努力を微塵も施していない声色で警告した。
 
「オイ、常長(つねなが)ぁ。僕の部屋へ許可なく足を踏み入れるな、って一昨日も言いましたよねぇ?」
「え、そうだったかな……いやぁスマンねぇ、ここから見える月を眺めながら煽る酒が最高なんだわ!」
 
 空白の目立つ本棚、そして壁に向けたパソコン設置用の机と中央に置いた食事用の机しかない部屋には、軽く見渡すだけでも二桁は下らない空き缶が転がっていた。ラベルにチドリビールと張られたアルミ缶は飲み口から零れる発泡酒で畳を汚し、無造作な有様が殺風景な部屋にふざけた着色を加える。
 中央の机を不当に占拠しているのは、ともすれば玄関に額を当てそうな巨躯にサイズの合わないジャージを纏った中年男性。帳へ向けられた顔は赤く出来上がり、わざとらしさすら覚えるしゃっくりが酔っ払いの印象を加速させた。
 常長は手に持つビールを反転させ、黄金色の液体を零すことなく口へと注ぎ込む。それでも零れた分を拭う仕草が様になっているのが、また腹立たしい。
 
「由来木屋ぁ、あれはなんだ……?」
 
 声の方角へ視線を落とすと、朝日が寝ぼけ眼を擦って常長を眺めていた。興味深そうな視線を見て、そういえば富豪に悪酔いしている印象はないな、と帳は一人納得する。
 
「あの人は正(ただし)常長。十年くらい前にどっかのマフィアから十億くらいくすねて、そのまま安全地帯である皐月荘に引きこもっている酔っ払いです。山城お嬢さんみたいな上層階級は処刑の時くらいしか関わらない人種ですよ」
「つれねぇこと言うなよ、帳ぃ。二十歳になったお前と飲むのが当面の目標なんだぜぇ?」
「三年も四年も未来のことじゃあ、鬼も笑い死にますよ」
「随分辛辣な物言いをするものだ、由来木屋くん」
 
 背後からかけられる声に、思わず帳は背筋を伸ばす。振り返ってみれば、そこには黒が立っていた。
 光源に乏しい廊下でさえ霞む深淵の黒。おそらくは、真夜中の住宅街に立っていてもその存在感は色褪せないだろう。そんなこの世に遍く光を吸収する黒がワンピースと魔女の被る帽子にも似た形へ加工されている。
 同一の材質で編まれた長手の手袋やロングブーツで肌を隠すが、それでも病的までに白い肌が肩や顔から覗けた。
 彼女も常長同様に皐月荘の住民であり、ついでに語れば巻奈の情報網を以ってしても経歴が一切不明の存在でもある。
 
「……驚かせないで下さいよ、ベンタさん」
「それは失礼した、由来木屋くん。だが、そこに立たれるとワタシが部屋に入れないからね」
「なんで僕の許可なく僕の部屋に入ろうと……」
「おぉ、来たか。ベンタ! こっち来て酌注いでくれよぉ!」
 
 帳の疑問を氷解させたのは、室内から響く常長の言葉であった。
 部屋の主を差し置いて常長から誘われたことで、ベンタは帳の横を通り過ぎる。その手に握るのは一目しただけで上質な代物であることを理解できる瓶。常長の安物とは一線を画す酒のラベルには、欧州地方由来と思われる理解できない文字列が並ぶ。
 腰を下ろしたベンタは何処から取り出したのか、ワイングラスを机に置くと、左拳を開き、これまた手品のように栓抜きを生やす。実際は別の手段なのだろうが、帳の目には生えた以外に表現する術が見当たらない。
 それ程までに鮮やかな手並みだった。
 
「おぉ、さっすがだな。ベンタ! その手品が見たかったぜ!」
「この程度、赤子の手を捻るようなものさ。いや、それとも……寝ぼけた幼子を誘拐するようなもの、と評するべきかな?」
「……ぶん殴りますよ、ベンタ。この娘はあくまで誘拐されていたところを助けたんですよ。今日が退院日だっただけの話」
 
 帳の視線が鋭利さを増すが、ベンタは口で怖い怖いと呟くだけで、グラスに注がれるワインには乱れの一つも見当たらない。
 透明なグラスを染めるのは、血を連想させる深紅の液体。かつての偉人が残した飲む宝石、という表現を借りるのであれば、ギリシア語で炎を意味する単語を付け加えられた一月の誕生石、パイロープガーネットが適切であろう。
 ワインのテイスティングに神経を研ぎ澄ますベンタやひたすら空き缶を量産する常長を他所に、帳は顎に手を当て思案する。
 議題は簡単、朝日を寝させる場所について。
 元々は自分の部屋で一夜を過ごしてもらうつもりだったし、反感を抱くのであれば帳自身は部屋の外で寝る程度の配慮を示す予定ではあったが、今の酒気が充満した部屋に子供を寝かせる訳にはいかなくなった。というより、帳自身も可能であれば遠慮したい酒臭さである。
 そうなるとまずは自室を台無しにした二人の部屋が候補に挙がるが、即座に却下。
 常長の部屋は眼前の光景の比ではない程の酒に溢れており、本人の弁を信じれば空き缶をベッド代わりにしている惨状だ。後日、依頼者から虐待で訴えられるなど洒落にならない。
 ベンタの部屋に関しては入居後に後付けされた幾重もの鍵を突破するか彼女自身を説得する必要があるが、どちらもまず不可能。
 
「仕方ないですねぇ。ホラ、お嬢さん。酔っ払い共は放っておいて、別の部屋に行きますよ」
「ふむ……分かった……」
 
 普段は気を張っているという証左か、寝ぼけている現在の様子はまさしく子供のそれであり、聞いている帳も勝手に部屋を占拠した酔っ払いへの苛立ちが多少なりとも軽減した。
軋みを上げる廊下を歩き、辿り着いた先は三部屋先。共同スペースの隣である。
帳は扉を二度ノックし、住民へ開錠を求めた。チャイムなどという上等な代物が、皐月荘そのものへの出入り口以外に設置されている訳がない。
 
「誰よ、こんな時間に……」
 
 扉の奥から聞こえたのは、鈴を思わせる声色。だが美しい音色に込められた感情は、露骨なまでに不機嫌さであった。
 ドアノブが捻られ、扉が室内に引き込まれる。そこから顔を出したのは、普段は猫耳フードを着用し、今は猫柄のパジャマを身に着けた情報屋。彼女は帳の顔を一目するなり、ただでさえ刻まれていた眉間のシワをより深くした。
 
「ハァ……貴方を泊めるつもりはないわよ、帳」
「そんなことを頼む気は最初からありませんよ、巻奈。ってか、なんで顔を見ただけで寝る場所がないことを……?」
 
 常長は酒豪であるが、少なくとも急に歌い始めたり物を破壊するような酔い方をする部類ではない。もしもそうであれば今頃、放任気味の管理人も何か対策を打たざるを得なくなっている。
 そんな彼に部屋を占拠されて困っていることを把握するには、それこそ帳が帰宅するよりも早く情報を仕入れる必要があるのだが。もしも彼らの暴挙を知っていたのならば、部屋を台無しにされる前に引き止めて欲しかったというのが、帳の偽らざる本音である。
 巻奈は帳の質問に無言の返答を下すと、視線を一層鋭くする。よく見れば、目元にはクマができていた。
 
「……それで、何の用よ?」
「僕はいいから、せめて山城お嬢さんを泊めて欲しいんですよ。僕の部屋の有様、知っているんでしょう?」
「そうね。依頼のことで話があったのは私も同じだし、せっかくだから上がりなさい」
 
 巻奈は嫌々といった調子で扉を開き、室内を晒した。
 天井にまで届くラックが壁に沿うように隙間なく敷き詰められ、棚には機材に疎い帳には理解できない装置が点滅を繰り返している。部屋が与える圧迫感は尋常ではなく、主である巻奈以外では独房、の二文字が脳裏を過る。
帳は招きに応じて巻奈の部屋へ足を踏み入れようとした、が。
 
「悪いけど、その娘には外で待っていてもらえるかしら」
「はぁ。まぁ、ここでやらかすような奴はいないでしょうし、いいですけど」
 
 帳は壁に背中を預けさせて朝日を座らせると、一人で彼女の部屋へ入室した。
 立て付けの悪い扉が軋みを上げて閉じられると、巻奈が近くにあったツマミを回す。過去に聞いた話では、外から聞き耳を立てられても問題ないように妨害音波を壁に流す装置なのだとか。
 それを起動させたということは、今からする話は外部に流出してはならない話ということを意味する。
 
「単刀直入に言うけど、山城家と連絡が取れないのよ」
「は?」
 
 巻奈が口にしたのは、そういう荒唐無稽。
 日本を動かしている四大名家の一角、山城家。あまりの規模に独占禁止法や財閥を禁じた法律の方を捻じ曲げるだけの財力と警察機構を凌駕する戦力を保有している比類なき化け物名家。
 彼の家の財力ならば専用の通信網程度は用意して当然であり、事実としてもらった連絡先は通常用と緊急用に加えて、通信不良時用のものもあった。
 
「もらった連絡先は全部ダメ。今は三個目の連絡先でなんとか繋ごうとしてるけど、音沙汰一つないのよ」
「本当ですか? 巻奈が情報を掴めないってよほど危険な状況なのでは」
「ただでさえ一人娘が誘拐されて混乱しているのだから、多少は情報が錯綜しても繋がらなくてもおかしくないけど……それがもう、一週間は続いているとなれば」
「山城家に、何かあった」
 
 帳が零した言葉は、不穏の色を多分に含んでいた。
 
 
『五島さん、助けて下さいッ。五島さんッ?! アアアァァァッ……!』
 
 端末から流れてくる断末魔の叫びは、これで何度目であろうか。
 明かりを落とした社長室で幾度目かになるそれを聞き、五島三実はため息と共に携帯端末を投げる。宙を舞う長方形の物体は黒革のソファーで跳ね、衝撃を殺した上で着地した。
 ため息を吐く三実はわざとらしく肩を竦め、ソファーに腰掛ける男へと視線を移す。
 
「どうやら山城家のご息女には、二束三文の不良だと相手にならないくらいの護衛がついているみたいですね」
「ほお、つまり彼らはそれを確かめるためだけの捨て石だったと」
「当然ですよ。彼らで事が収まる程度であれば、アナタを呼ぶ訳がない」
 
 男は、針金だった。
 当然これは比喩的な表現であり、実際に身体の構造が針金であるという訳ではない。だが、それでも三実の脳内では一目した時から針金、という単語が突き刺さって離れなかった。
 ソファー正面に設置されたガラス張りのテーブルに肘を置き、顔の前で交差された指の一本一本。テーブルに収まり切らず、大きく股を開いてなんとか事なきを得ている足。更には切れ長の目や肩の辺りまでストレートに伸ばされた黒髪。
 全てが長く、そして細い。
 このまま忍び寄ってどこかを叩けば、軽快な音と共に折れてしまうのではないかと、三実が不安を覚えてしまう程に。
 
「それにしても……あの五島グループを率いる若き才媛、五島三実がここまで散財趣味があったとは。先代も草葉の影で泣いておられるでは?」
「山城家の経済基盤の一パーセントでも拝借できれば、うちの総資産よりも利益が上がるんだ。父さんも納得してくれるさ」
「おぉ、怖い怖い」
 
 三実はネクタイを正し、針金と正対する。彼は座ったままで、自身は向かい合うソファーへ片手を預けて。
ワックスで固定された七三分の髪をかき上げ、三実が笑みを形作る。他の企業の重鎮へ向けた仮面ではなく、それを剥がした先に眠る真実の笑み。この世の全てが自身の思い通りだと信じて疑わない、暴君とでも形容すべき笑みで。
 
「意外性で言えば僕の方が驚いてますよ。まさか、当主が直々に赴いて下さったのですから」
「意図的にワタシが赴いた、であれば美談の一つや二つになるでしょうが。残念ながらマトモに会話が成立するのがワタシだけだから当主をやっているに過ぎず……いわば消去法で選ばれただけです」
 
 針金の口元には自虐の笑みが浮かべられているが、目は欠片も笑っていない。三実が普段浮かべる笑みも似た部類であるが、形だけ取り繕った代物で、内面が全く反映されていなかった。
 故に三実もそれを承知の上で話を進める。
 
「だとしても、ですよ。
悪路が失敗して、不良は役に立たず。となれば、他の禍ツ名を頼るのが一番早い。でも神上(かみがみ)は仲介屋の運頼り、滅相院(めっそういん)は間違いなく蹴る依頼で、その他三つはそもそも論外。こちらも消去法という意味では同じものですよ」
「なるほど、似た者同士ですか」
「そうですよ」
 
 同意の言葉を吐き、三実は両手を仰々しく広げた。
 針金を、その同胞を歓迎すると、視覚的にも訴えるために。
尤もこれはあくまで依頼の話、必要なものは感謝の気持ちや歓迎などという一銭にもならない愚物ではない。相手を納得させ、天秤をリターンの方へ傾けるだけの質量が求められる。
 
「報酬も言い値で払いましょう。山城家の経済基盤を乗っ取れれば、どれだけ、何を払おうともお釣りはきますから」
「……でしたら、そうですね」
 
 針金は顎に手を当てて思案すると、人差し指を立てる。
 
「まずは前金で二〇〇万。そしてちょっとした人探しを手伝って貰いましょうか」
「たった二〇〇万? 随分と親切な値段設定ですね。それとも、人探しの方に比重が置かれている、とか?」
「いえいえ。なにせワタシ達は裏社会でもはぐれ者集団でして、いっそ安値で仕事しますよ、ってアピールした方が食い扶持に困らなそうなんですよね。これ以前だと半年前です、マトモな依頼は」
「なるほどね、それは大変」
 
 お前らの悪評を聞けば当然だろうな。などと喉元まで出かかった内心を引っ込め、三実は嘆く針金の言葉に同調する。
 高い腕前を持ちながら、安値で技術を売らねばならない者の苦悩など三実には理解できない。一つの集団を率いる長として、そのような事態を未然に防ぐ義務があったため当然と言えば当然。そして一度そうなってしまった者は顧客でも商売敵でもなく、単なるカモとして餌食にしてきたのだから。獲物の気持ちを真に理解できるはずもなし。
 
「分かりました、交渉成立。
 それでは山城朝日の誘拐、頼みましたよ。害孕鈍刃(がいはらなまくら)さん」
 
 三実は端正な顔立ちを、三日月を連想させる口角で歪ませて針金──鈍刃へと向けた。



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