渡部ひの『離陸』2021近藤芳美賞入選作を読む
昨年の近藤芳美賞で、短歌ユニット☆チカヨミの仲間が入選した。しかし、「おめでとう!」と言ったきりきちんと感想も伝えていなかったので、書き起こそうと思い立った。入選作は、15首連作のうちの8首が掲載となり、そのなかの4首をとりあげたいと思います。
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『離陸』は、彼女のお父様が亡くなられたことについて詠まれた連作であり、旧知の友としては、ことさら身に沁みる内容である。
使い捨て医療ガウンを脱ぎながらまだはっきりとしてこない朝
夜どおしの看取りのあとの明け方である。看取りの時間を象徴するかのような医療ガウンは使い捨てで、二度と蘇ることのない命や、戻ることのない時間を投影しているように感じる。夜と朝のあいまいな境の時間は、生と死の境に立たされているようなそんな「はっきりとしてこない朝」なのだろう。寄る辺ない不安感が滲むような、繊細さがうかがえる。
人という器にながれこんだ水すべてが燃やされるまで待った
火葬場での待ち合い。人体は半分以上が水でできている。水を燃やすという概念に対する違和感というか、不思議さのようなものがある。人は器で、父の器が燃やされる。それを待つ時間の、死への実感の薄さがリアルだと思う。漢字表記が絞られている(「ながれこんだ」がかなである)ことも、「水」「燃」という相反する文字を引き立たせている。
そして、下の句は句またがりだが、三十一文字にはしっかりおさまっている、こういう句またがりが個人的に好きである。自然に自分から発せられる言葉を歌にするとき、定形に整えすぎると自分らしい言葉ではなくなることもある。そういう意味で整えすぎないことにも良さはある。ただしそれが字余りになったりすると冗長なかんじがしやすいけれど、三十一文字におさめることで、過不足ない一首として感じられる。と個人的に思っている。
かさぶたをそっとはがして見るようなソラスタルジア遺影に水を
「ソラスタルジア」という言葉をわたしは初めて知ったのだが、環境問題を扱う教授グレン・アルブレヒトの造語で「故郷がもたらす安堵感が失われるときの心の痛み」と定義されているようだ。本来は開発によって故郷を失う先住民などに使われる言葉だが、「父」という存在を「故郷」に置き換え、親との死別を「ソラスタルジア」と表現したのは絶妙だと思われる。「かさぶたをそっとはがしてみるような」も、良い思い出だけではない家族ならではの複雑な気持ちがそこにあるようで、血の通った痛みの表現だ。
遺影に水を供えるのは宗教というよりは風習で、なぜそうするかは諸説あるが、連作として読むと、火葬場ですべて燃やされた「水」を思い起こし、そこに死者と生者をつなぐ「渇き」が感じられる。
まなざしは淡く空へとほどかれてあなたはここを離陸してゆく
「まなざし」をどう解釈するかでこの歌の景色は少し変わってくるのかなと思う。わたしは「まなざし」を、その人の存在そのものとしての知性や人格のように感じた。魂と言ってもいいのかもしれないが、そうすると宗教的な解釈が入ってきてしまうのであえて言わないのが良い。あるいは、「まなざし」は父のものか自分のものか、その両方を含む家族の間で交わされる絆だろうか。その「まなざし」の解釈に余白があるのもいいのかもしれない。煙のようにこの世からほどかれて「離陸してゆく」という。穏やかで静粛な「死」の描写の見事さに、納得させられてしまうから。
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詠むことは創造だが、読むこともまた創造だというのが、短歌の評の文化のようだ。短歌をはじめたばかりの頃から「評」文化になかなかなじめず、避けて通りがちだったが、少しずつ歌と向き合う時間を作りながら、自分なりの評を記していきたいと思う。その決意表明を込めて、拙いながらも大好きな友の連作を先ずとりあげました。
つまりは、みんな、これからもよろしく。
淀美佑子