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堀田季何『惑亂』より 一首評*好き!を解剖するvol.1

 病死せし肉體つねに死にてゐて病みてはをらずファラオの木乃伊

 堀田季何『惑亂』より

 当たり前のような、そうでないような、不思議な気づきのある歌。

 死体なので常に死んでいる。そりゃそうなのだが、病死したとしても死んでしまえばもう病んではいないと言える。死体を処理して保存するミイラ化の儀式は、あの世に甦るためのものと考えると、甦るかもしれないが「つねに死にて」いる死体というのも少しシニカルな気もする。しかし、この視点には気づきやおもしろさだけでなく、生と病と死の関係を改めて考えさせられる。

 *分離される「病死」

 一首の歌のなかに「病死」が「病」と「死」に分離されている。病は体を死に至らしめる。だが生きているからこそ病むことがある。そして死ねば病からは解放される。「病」は原因で、「死」は結果。結果、原因と無縁になる体。考えていると、「ニワトリと卵どちらが先か?」みたいなことになる。

 さてファラオは無事あの世で甦ったのだろうか。古代の命の病死に思いを馳せるロマンも感じられる。作者に持病があるらしいことを考慮に入れると、病からの解放という意味での「死」に対するあこがれのようなものもあるのかもしれない。

淀美佑子






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