『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が何が言いたいのかを考えてみる

劇場にて

 本年いきなりエンタメ部門トップみたいな映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観てきたよ!というわけで、いつもどおりツイッターで感想をつぶやこうとしたわたくしことヨドミバチ。だけれど、はっきり言って熱すぎた!

 激しいアクションとシュールの応酬! さらに歯ごたえタップリなSFストーリー! もうこれだけでおなかいっぱい大満足な映画だったのだけれど、めちゃめちゃ現代的で哲学的な内容でもありました。
 おかげで古い悪癖が再発して感想が長大に……そこでもう「観た人向けの考察」の部分をnoteに記事として格納することにした次第であります。

 映画の表面的な部分についての紹介(ネタバレなし)と熱ぅぅぅぅいパトスはツイートだけ見てもらえれば十分です!(それでも5ツイはゴツい。あっ、座布団がっ……!)

 さてさて、全体あらすじのおさらいとかまではしませんけど、ここからは一応ネタバレも含む「観た人向けの考察」の部分。
※ 正直1回観ただけじゃ拾いきれないくらい内容濃すぎだし、実際何度も脳みそオーバーフローしました。そんな中で本当に個人的に思ったことをつらつらまとめただけなので、ナマぬるい目で見てくれないとむりっ!w

 カンフーバリバリのスタイリッシュアクション、ちょっとお下品だったりもするシュールなコメディ、そしてポップなのにがっつりなSF。そんな素晴らしく元気いっぱいでファンキーすぎる脚本の中で、監督は『スイス・アーミー・マン』でも見せたドラマ性と、それを引き立てる“人生についての大事な話”を盛り込むことを今作でも恐れなかったようです。特に今の世相に理解を示しながら斬新な視点を提案する姿勢は健在。


激しいアクションとシュールの応酬。さらに歯ごたえタップリなSFストーリー。すでにおなかいっぱいな脚本に盛り込まれた“人生についての大事な話”

 『スイス・アーミー・マン』のときも、「あのラドクリフくんが死体役!!? しかもその死体が超便利!!!??」とコメディライクとキャッチーな要素で誘っておいて、この監督はドラマ性と人生哲学じみた要素を盛り込んできた。それもありきたりな哲学じゃなく、世相や若い世代の感情を投影しながら斬新な視点を提案しようとするもの。
 今回もその姿勢は健在。どころか、このハチャメチャでヘンテコなストーリーが最後には驚くほどきれいにそこへ収束していきます。あれだけ情緒振り回されても劇場で泣いちゃう人がいたのも納得だ。

 今作に見える若者の感情をひとことで言っちゃえば、自己肯定とか多様性理解とかの価値が最近上がってきて生きやすい世の中になってるって言われるけど、ぶっちゃけそこだけ上げとけばなんとかなるでしょみたいに放り出されるのはむしろツライ――って自分は受け取りました。読み解くカギも、これまたトレンドな概念「~ガチャ」です。
 ※ガチャというワードは日本のトレンドだけど、たぶんに今の先進国の若者はある程度似た感覚を持ってるんだと思う。その話は脱線しまくるので割愛。

ぶっちゃけ疲れませんか、「自己肯定」?

 作中で猛威を振るうのは、無数の並行宇宙にいる“別の自分”の技能をコピーする超技術「バース・ジャンプ」。
 正確には精神だけを実際に別宇宙に飛ばし“別の自分”に憑依する技術で、そのとき“別の自分”が持つ記憶と記録が全トレスされる。その状態で自分の宇宙に戻ってくることで、オリジナルの体で技能を再現できる、というわけです(完全に戻ってくるんじゃなくて同期されたような状態にもなる)。ここには見えるのは、「たとえ別の宇宙の自分であっても自分に存在する可能性の一つには違いないので、記憶さえ持ってくれば再現できる」というロジック。暴論だけど、自分のクローンから臓器移植を受けるようなモノだと考えましょう。

 で、先に言うと、このロジックってマルチバースの世界観とバース・ジャンプのSFが可能にする「最強の自己肯定」かもしれないっていうのはわかるでしょうか? 

 自己肯定感の低い人はたいてい自分の可能性を信じていません。どんな選択をしようが自分の人生はどうせ冴えない感じだろうと、口では何と言っていても薄々考えている。マルチバースや世界線といったSFワードは、あとは異世界転生なんかも含めて、その暗澹とした精神に光を当てるものでもあります。
※以下、世界、世界線、宇宙というワードが混在しますが、すべて同じ意味だと思ってください。作中では「宇宙」に統一されてるのでなるべくそっちを使いたいですが、文脈によっては逆にわかりづらそうなので使い分けてます。

 今作がSF的にも斬新なのは、他の世界で実現されている「可能性」を自分の世界に持ち込めるところ。別の世界線に行くことで未来を“替える”物語は先例がいくつかあるけれど、元の世界線にいながら別の可能性を(しかも好きなだけ)獲得することにこの作品の特徴があると言えます。
 元の世界を捨てて本当にいいのか!?みたいな葛藤もせずに済みますね。「本気になれば何でもできる」と絶対的な確信=自己肯定を得た精神ほど無敵なものはないでしょう。

 けれど、落とし穴はありました。
 元の世界を捨てていいのか葛藤せずに済むって言ったけど、それはドラマとして盛りあがるから葛藤させられるお膳立てもされてるんであって(問題を解決できる世界に行くと幼馴染が死ぬとかね)、しょうもない世界ならとっとと捨ててしまいたいと思うのが人情ですね。「バース・ジャンプ」は精神だけとはいえ実際に渡航する。そこが自分の王国なら、不法滞在の誘惑はすさまじい。
 ただ、作中の話によれば、この誘惑に負けてしまうとなにやら「死ぬよりひどいことになる」んだそう。で、この設定は例の“怪物”の成り立ちへも繋がっている。

 繰り返しになりますが、別宇宙の自分とは自分に存在した可能性そのものです。可能性を認定されることは、現代人の人生哲学でも前向きな啓示になるものと思います。
 自分には可能性が実在するという「最強の自己肯定」。ただ、技能をコピーし収集できても可能性を実現した世界に鞍替えまでできないところに微妙な葛藤は存在しますよね?
 可能性が否定されないのに実現しない。そこへは選択という自己責任論意外に、必ず第三者的な要素が顔を覗かせる。生まれ落ちた環境、他者とのめぐり会わせ、運。日本では昨今「ガチャ」のスラングで捕捉され始めたパーソナリティの構成素材です。

 「ガチャ」という考え方の肯定否定については今はわきに置きましょう。いやさ、考え方の角度として存在すること自体は肯定されてしかるべきかもですけど。
 しかしながら、〝怪物〟はあらゆる〝宇宙〟を知り尽くしたので、だったら無限の可能性を自力で認定し、無敵の自己肯定感を得たはずです。にもかかわらず、あの〝怪物〟が何と言ったか。

 彼女は「疲れた」と言った。
 このとき、これは今の若者そのものじゃないか、って考えがふっと浮かんだんです。

 選べる自分。肯定される可能性、そして多様性。
 何でもできるし、誰にでもなれる。けれど、なりたいものを明確に決められる人間というのは、実はなりたいものになれる人間と同じくらいひと握りだったりしないでしょうか。可能性を提示されても選べずにいるうち、なんにもなれないまま過ごしてしまうのが大半ではありませんか?
 また一方で、世襲は廃れ、先達は後継者の育成をやめ、あらゆる職は派遣だ契約だ外国人の実習生だと(これは日本の話ですけど)、人にキャリアを積ませる意義を薄れさせつつある。上から引っ張ってもらえないのが現状ですが、今の「ガチャ」という視点は概ね下が押し上げてくれないことへの不満が主要素でしょう。
 たとえ押し上げられても、その後は本当に自分で選ばなくてはいけないのが現代です。まったくもってご自由にと放りだされる。

 拠り所がないことへの不安を若者たち自身がとらえ切れているでしょうか。
 ガチャだガチャだと言いながら回すガチャを自分で選べたことはない。言い当てたつもりでも光明に変えられない。
 米津玄師も歌ったように、「ラッキーで埋め尽くしてレストインピースまで」なのです。ガチャという概念を歓迎し自分の可能性の肯定を望みながら、誰かが道を狭めてくれる楽さを否定することはできない。挙句は疲れ果てて暴走する。

 〝怪物〟は肥満でしたよね? すなわち暴飲暴食はわかりやすい暴走であり、本国でも長らく社会問題化しています(日本でも聞きますね)。そのようにして可能性をむしろ自ら否定しようとする若者の癇癪を、”怪物”と称したのではないでしょうか。

「自己肯定」に足りないものは?

 可能性、多様性、選択肢。ここに欠けている視点はそもそもなんでしょう?
 主人公エヴリンもまた、可能性によって肯定されることに疲れ果てたか、再終盤の手前あたりで各宇宙のエヴリンがこぞって自分の現状を破壊し始めました。それを止めたのは何だったか。

 アルファ・ウェイモンドは“役に立つモノ”としてエヴリンに歓迎されました。
 しかし、「ぼくも闘っている」と告げたのは冴えない旦那のウェイモンド。
 可能性も多様性も自分自身だけのもの。欠けているのは、他人という存在ではないか。

 怪物は癇癪を起こしました。自分の世界に真に存在として認められるものが自分自身だけだったからです。
 自己中はその人の選択ではなく現象であると言えます。ガチャという視点は他人を単なる因数や乱数のようなもの、あるいは否定的か肯定的かでカテゴライズされる無機質な素子に置き換える思想です。
 自分が置き換えられている気がするから自分も置き換えるのだと復讐的な無意識もあるかもしれませんが、いずれにせよ闘っているのは自分一人であって、他人はすべて素子であると評す意識から人はなかなか脱却できない(現代に始まったことじゃないんですが)。それはとても孤独なことで、他の人格という意味での他人に承認されたいと願う心と矛盾します。若者が認定され肯定されることを暗に恐れるようになったとすれば、この意識はより加速しているのかもしれませんね。

他者を認知するということ

 自己の肯定とは、おそらく人間の”第一段階”なんです。
 さらにその前があるかどうかは置いておくとして、とにかく初期の段階であまりにバグとエラーの多かった前時代にはカウンターを当てまくる必要がありました。その痛快さをエブエブのバース・ジャンプは手早く再現してくれたわけです。ただ同時にそれは、”自己の肯定”というのは意外と機械的な手続きで踏破しうるものだったと暴いたということでもあります。
 見かけほど複雑じゃないんです。人間は混沌とした状況では解決できそうなものにすがりたがる(映画『ミスト』を参照)から、その手順についての話が井戸端では永遠に繰り返されます。わかりやすい話をわかりやすく言うとツイッターでバズれますよね?
 しかし、第一段階は第一段階に過ぎません。実のところそれは若者たちにはとうにバレていて、だから疲れるんじゃないでしょうか。永遠にスタートの練習を繰り返していてもどこへも行けないのだから。

 他人という存在を認知することは、実は『スイス・アーミー・マン』でも別のアプローチからテーマのように扱われていました。
 自分がいて他人がいる。他人がいるから自分がいる。
 他者理解の重要性って昔から説かれてはいたと思うんですが、“第一段階”が今ほど尊重されていなかった分ノーカン気味だったようにも思います。
 だいいち完全に理解する必要ってないんですよ。エブエブもそれは問うてなかったと思いますし、無理にしようとすると理解は願望によってゆがみます。そうでなくても、理解は相手を素子にしておいてもできること。他者理解は一見相手のことを尊重する行為のように思えますが、必ずしも他者が他者として存在し、他者なりに闘っていることを認めるものとは限らないのです。

 可能性だけを後生大事に守っていても、宝物を抱えすぎて手のふさがったお伽噺のお金持ちのよう。しかし、癇癪を起こして打ち捨てたって他人が振り向いたりはしないでしょう。自分の世界だからこそ、他者も自分も不可欠です。それに気づくことはループする“第一段階”から抜け出す糸口になる。
 迷宮であることを言い当てても光明には変えられなかった迷宮の出口を本作は示しました。それがそもそも言い当てることで破壊したかったもので、癇癪の矛先で、あんなにもあたたかく受け入れてくれたのなら、涙ぐむのも無理はないことでしょう。

 最後の最後、親子が別れる可能性もあったと思うんですよね。互いの人生なのでそれはそう。
 だいいち、親という存在の誰もがエブリンのように劇的に成長するわけじゃありません。物語は娘の視点から見る方が理解しやすいものの、親であるエヴリンの精神的な成長譚でもあり、親子ともにほぼ”同じ成長”をしています(これも新鮮で面白い)。そもそも子供が詰まる場所は親も子供のときに詰まった場所で、”詰まった”と過去形とも限らないわけです。詰まったままでも時間はたち、体は大きくなり、人生も進みます。ならば、共々に成長しなくては光明もないのかもしれない。であれば、いつか親になる子供たちにとっても、エブエブにこめられたものは”人生についての大事な話”となりうるのではないでしょうか。

Thanks for reading!!💚

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,972件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?