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10年くらい前だったか、韓国文化交流会というイベントに参加した。大阪で勉強している韓国人留学生たちと、日本人韓国語学習者が集まるような会だった。日本人の方は、韓流ファン女性が大半だった。そのひとり、たぶん20代くらいの若い女性だったが、あるグループのファンだというので「今月号のnon-noの表紙でしたね、あんな有名雑誌の表紙飾るなんてすごいですね」と話しかけたら、キョトンとされた。まるで言葉が通じてないような感じだった。これはなんだろうと不安になりつつ、その後、少しやり取りして、どうやらこの方は「雑誌」という概念を知らないのだ、ということが分かった。ちょっとした衝撃だった。

でもまぁ考えてみれば、知らなくても無理はないのだ。美容室とかでファッション誌をみたりすることはあるんじゃないかと思うけど、定期刊行物ではなく、写真が載っている本くらいの認識なのだろう。そのグループが表紙の本がある、というくらいは知っていても、有名雑誌の表紙であることがどんな意味を持つのか、知らないのだと思う。(もちろん、今日の状況において、雑誌の表紙に載ることが実際にどんな意味を持っているのか、については私も知らないのだろうけど。)

最初に書いたように、これはもう10年前の話。21世紀以降に生まれた今の大学生たちにとって、「雑誌」がある、ということを知識として知っていたらマシなレベルのものだろう。ほとんどの学生は、子どもの頃に紙のマンガ雑誌を読んだ経験もないだろうから。(そういう人たちは、たとえばよく耳にするだろう「文春」をどんなものとイメージしているのか、ちょっと知りたい。)

「昔」は、趣味を持つ=そのジャンルの雑誌を定期購読する、ということでもあった。自分の場合も、子どもの頃は、マンガ雑誌以外にも『月刊短波』や『将棋世界』をとっている時期がしばらくあった。『週刊プロレス』は10年以上定期購読していた。末期の『朝日ジャーナル』も定期購読していたな、そういえば。だけど、21世紀に入ると定期購読するものはなくなった。『月刊競輪』は研究テーマだから継続していたが、2012年に廃刊となってしまった。

大学院に行こうか、と考え始めた頃、もし大学の仕事につけなくても、雑誌とかで何か書ける人になれたらいいな、なんて甘いことを考えていた。『別冊宝島』がまだ人気があって、社会学の本なんかも話題になっていたからだ。大学院で学ぶような知識を使って、文章を書いたり編集したりする仕事くらいあるだろ、みたいに思っていたがアホすぎる。ライターの仕事なんて当時から甘くない厳しい世界だったはずで、自分になんてつとまるはずはなかったし、当時バリバリ書いていた有能なライターたちも、その後の紙媒体の凋落で廃業・転業を余儀なくされた人も多いはずだ。大学で仕事をするしか、こういう知識というか、まぁそういうものを使ってお金を得る方法はほとんどないのだ。だから、在野研究者を名乗っている人は、だいたい他の仕事、清掃のバイトとかで生活費を稼いでいるようだ。それか、誰かに食わせてもらえているか。

というわけで、若い頃の甘い目論見のために、どうしようもない閉塞感を抱きながら生きながらえる日々ではあるが、環境としてよくなったこともやはりある。こういうブログ、note的なツールができたのは、雑誌文化にとっては敵だが、個人単位で見るとやはり良いことだ。お金にもならないし、沢山の人に読んでもらうのは至難の業だが、どこかの誰かにいつか読んでもらう可能性のある場所に自分の書いたものを置ける、というのは、まぁ楽しいことではある。こんなはずじゃなかった、と思い続けて、日々老いていくくらいなら、じゃぁお前さん、いろんな雑誌があったり、ライターになれたりしたら、何を書くつもりだったの、書きたいのはどんな内容だったの、という根本的なことをあらためて考えて、こういう所にでも書いて残しておくようにしたい。

と、十年くらい前から、そんなことを考えてはいるのだが、なかなか。

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