末っ子根性と姉御肌
私は三人姉妹の末っ子で、姉二人とは一回りほど離れている。父親が違う「種違い」だ。母は夜の商売で、昼間は寝ていて夜はいない。ギャンブラーの父は夜家を空けることがおおく、姉たちは私にとって、半分親のような存在だった。食事の世話や、病気がちだった私の看病。友達と遊びに行くときでさえ、私を連れて行ってくれた。私はそんな姉たちに甘え、わがまま放題に育った。
ただ、近づききれない、「血」がそうさせているであろう薄膜のようなものは、子供ながら肌で感じていた。
姉二人は2歳違いで、ちょっとしたことでよくケンカをしていた。服を勝手に着ただの、ラブレターを覗いただの、どうでもいいことで言い争い、それがエスカレートして、取っ組み合いまでしていた。
私はそれが羨ましかった。
そのケンカに入れないことに疎外感を感じていて、わざと悪いことをしてケンカを仕掛けるも「あのね、それはやっちゃだめなんだよ。よしよし。」と、軽くあしらわれて終わった。
(違うのおねえちゃん。私はあなたの妹なんだ)
(子供扱いしないで。私だってケンカくらいできるんだ)
そんな気持ちを上手く言えなくて、それがなんだか悔しくて、よく分からないまま「ごめんなさい」と姉の腕の中で泣いていた。
小学校低学年になった頃、長姉は看護学校の寮に入り、次姉は住み込みで美容院で働き始め家を離れた。ちょうどそのタイミングで、姉たちと共ににそばにいてくれた祖母も他界した。
甘えられる場所がフッとなくなった時、子供心に「もう誰もあてにしてはいけないんだ」と考えるようになった。
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学生時代は友人と呼べるものが作れなかった。仲良くしようと思えば思うほど、なぜかこじらせてしまい人は離れていって、その理由が分からずにいた。学校では必ずグループ作りの時に最後の一人になる存在で、先生の嘆息が心苦しかった。コンクールや修学旅行など、クラス単位に十把一絡げで喜んだり悲しんだりすることが恐怖で、運動会の応援合戦なんかで、おそろいのトレーナーにひとりひとりの名前をフェルトで縫い付けたり、ハチマキを身に着けただけで吐き気がした。
性分に関しては、ここ最近の様々なアルファベットを3つ4つ並べた、人間の特性のようなものが医学的に提唱されるようになって腑に落ちた。しかしながら昔にそんなものが認知されているはずもなく、「変わり者」扱いだった。
生まれ持った環境に対しては、偏った考えの大人によって少し悲しい思いもした。「あそこの子供とは遊んではいけないよとお母さんに言われた。」といった近所の同級生に罪はない。昔の話だ。子供は素直で無垢な分、残酷なのだ。
私は「孤独を愛する術」を身に付けることに専念した。近所にある山を歩き回り、腹がすけばアケビやヤマモモをかじり、日が落ちるまで木の上で過ごした。誰もいない食卓のテーブルに置かれた、肉屋のコロッケを口へ運びながら、先生に提出する書きたくない日記を書く。鮮やかな赤色のペンで書かれた先生の返事は決まって「誰かと一緒にやってみましょう」だった。
たまに声をかけてくれる近所の友達の誘いを、することのない勉強を理由に断りながら、部屋や図書館で本を読み、四人でするボードゲームを、こたつの周りでぐるぐると回りながら四人分プレイしていた記憶。独りでいれば自分の行動に対し誰にも揶揄されることなく、気が楽だった。そんな生活は中学を卒業するまで続いた。
実家のスナックでバイトをするようになってからも、酒の力を借りなければまともに人と話すことが出来なかった。幾分かの人生経験を重ね、こんな私でも好いてくれる人がいて、20歳過ぎに結婚し家庭を持つことが出来たが、心に棲みついた孤独は常に脳裏にあって、もう一人の自分に監視されているような日々だった。
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勤めていた自動車部品工場で、パートから正社員に昇格した頃、5歳下の後輩からパートの複数人からいじめに遭っていると相談を受けた。当時職場では女性特有の派閥があり、そこに胡坐をかいている人がいた。リーダーと上司の許可を得て、私はその相手に釘を刺した。それと同時に、後輩に対しても少しアドバイスをした時だった。
「くくるさんって、姉御肌ですよね。」
「姉御肌…?私末っ子なんだよ。」
「そうなんですか!くくるさんて、めんどくさい相手にはっきりめんどくさいとか言い放っちゃうからてっきり…でも助かりました!私も気を付けます!ありがとうございます!」
「へ?ああ、そうなんだ…どうも。」
なぜお礼を言われるのかも理解できず、思ってもみない言葉だった。
私はただ、めんどくさい人に「めんどくさい」と言い、その理由を理論立てて説明しただけで、反感を買う買わないだのはどうでもよかった。仕事場は金を稼ぎに行く場所で、友達を作る場所でも楽しくお話する場所でもないと思っていたからだ。工場では2時間に1回休憩が入るのだが、休憩所の雰囲気に馴染めず、当時は喫煙者だったので、無言で一服した後はその場を離れ、資材置場の窓から見える緑を眺めていた。
「くくるさんて、群れないところがいいんですよね。」
後輩はなぜか耳を赤くして去っていった。
後から知ったのは、「孤独」を味方につけるべく過ごしてきた私は、端からみると「孤高」のように見えていたことだった。
この出来事がきっかけで、私はその後リーダーを経て、その会社で初めての女性管理職に就いた。取り仕切る部下の数はパート30名と正社員が10名ほど。その約8割が、私よりも一回り以上年上の女性だった。
朝礼のたびに発する言葉があった。
「皆さんの手から放たれた製品が今、世界中の車に取り付けられて、ドライバーの命を守っています。製品を実際に手に取るお姐さん方の働きが、この車社会を支えているのだから、もっと誇ってください。お姐さん方が良い製品を送り届けてくれるおかげで、お客様が快適な運転が出来ているんです。」
現場を回り、一人一人に声をかける時は、「末っ子根性」を存分に発揮し甘えていた。それを部下ならぬ「お姐さん方」はみな快く「姉御肌」を発揮して働いてくれていた。
我ながらいい部署を作ったと思う。
私が助ける形となった後輩とは、よくケンカをした。その度にいいアイデアや解決策が生まれ、プロジェクトを成功させていった。今はその後輩が私の跡を引き受け、管理職として部署を取り仕切っている。しばらく連絡はとっていないが、私に声を掛けた時と同じように、耳を赤くしてお姐さん方に声を掛けながらこの現状を乗り越えようとしているだろう。
その後輩も末っ子だったことを知ったのは、私が退職してからだったが。
(末っ子根性と姉御肌-Fin-)
読んでいただきありがとうございました。これをご縁に、あなたのところへも逢いに行きたいです。導かれるように。