駅で男は目覚めた

駅で男は目覚めた。朝陽の当たるベンチの上で、いつの間にか座り込んでいた。いつから腰を下ろしていたのか、いつから眠りについていたのか、男にはわからなかった。どこかへ行かねばならない。立ち上がって、背を伸ばし、頬を張って、目を輝かせ、力強く一歩を踏み出さなければならない。何かが自分にそう命じている。いや、そうあるべきだという自分の憧れが、自分を追い立てるようにその影像を自分の脳に課している。行き先さえ定まればおれは立ち上がるだろう。力強い一歩を踏み出しさえすれば、次の一歩は勝手についてくるだろう。そうおれに教えたのは誰だったか。教えられたと思い込んでいるおれがいるだけだったのか。なにもせずになにかを学んだという気がしていただけのおれが。いずれにせよ男は駅から出発しなければならなかった。いつまでも駅にとどまることはできなかった。果たしてこの駅は始発駅であるのか、終着駅であるのか、中継地であるのか目的地であるのかも定かではなかった。そしてそのどれに該当したとしても、男にとっては大して意味がなかった。男はそこから始める気も終わる気もなく、続ける覚悟も止める意志もなかった。男にとっての問題は、自分の腰掛けるベンチに肘掛けがないことだった。正確には肘掛けはあるのだが、ベンチの端に設えられているために、男の坐っている位置からは届かないのであった。それは男にとっては肘掛けがないのと同じであった。男の肘は明らかに落ち着きを失っていた。肘のやり場のなさ故に、男は腕を組み、解き、脇を締め、そして緩め、腕を伸ばし、また折りたたみ、腕を伸ばしながら脇を締めたと思えば、すぐさま腕を組んだまま肩をぐるぐると回すように蠢いた。男は肘掛けの近くに躙り寄ることはなかった。一度立ち上がって、ベンチの端に移動することはなかった。誰かに命じられれば、あるいは少しは動いただろう。だが男に命じることのできるものは誰もいなかった。男自身にすら、男に対して何かを命じることはできなかった。男はそれをよく知っていた。忘れたいほどに知り尽くしていた。何かの偶然が必要だった。男の自発ではなく、外的な何らかの偶発によって、男がそこを離れるに足る必然が生まれることが期待されていた。男は男に何らの期待もしていなかったが、ただ男にそうさせる何かに対しては、限りないと言っていいほどの期待を抱いていた。その期待だけが、肘掛けを持たぬ男を支えていたと言って差し支えないだろう。男は朝陽が陰るのと同時に、体を屈め、脚を抱え、腰掛けるベンチの上に身を横たえた。震える肘を男の両の手のひらが包み込んだ。あまりに使い込まれていない肘骨まわりの薄い皮膚が、ガサついた手のひらには心底ふさわしくなかった。男の視界には男の眼前の景色ではなく、肩肘をはる無様な自分の老いたイメージしか映らなかった。男は目を閉じた。目を閉じる前に口を閉じた。口を閉じる前に喉を閉じた。喉を閉じる前に心を閉じた。心を閉じる前に瞳孔が開いた。瞳孔が開く前に食道が開いた。食道が開く前に傷口が開いた。傷口が開く前に男の体はベンチの下に落ちていた。転げ落ちるように、体は座板をすり抜けていた。夕陽から差し込まれてくる光線は、男の体に届く前にベンチの腰掛け部に遮られ続けていた。男の脳が、眠りにつく己の影像を認めて眠りにつくまで、ずっと、ずっと。

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