駅で男は目覚めた…
駅で男は目覚めた。きっとこれが最後の目覚めであると、男にはわかっていたに違いない。走査するように男の視線は、視界に映る何もかもを、ひとつひとつ見つけていった。男は男の瞼の裏を見た。男は男の睫毛を見た。男は男の眼と眼鏡との間にある空気の層を見た。男は男の眼鏡のフレームを、そしてレンズを見た。男は男の眼鏡のレンズを通して男の眼前の空間を見た。男は男の手と爪と指と腕と手の甲と手の甲に浮き出る血管と第一関節と第二関節と第三関節と爪に溜まった垢と指に生えた産毛とを目の端に捉えながら、何か駅に相応しいものを見つけようとしていた。それは行き交う人々の姿であったか? いや、すでに行き交うに足る人々の質も量も賄われることはないことを男はよく知っていた。それは駅に帰着するあるいは出立する電車の車体であったか? いや、もはや人や物を収め納めるための何ものも許されはしないことを男はよく学んでいた。それは線路であったか? 踏切であったか? あるいは金網のフェンスや鉄条網であったか? あるいはそれらがどこかしら破損している姿であったか? あるいはただ破損しているその部分のみを見つけようとしていたのか? いや、いずれにせよ、行くべき方向も、戻るべき車庫も、通過を見届ける過程も、遮断するべき脅威も、囲うべき領域もないのだということを男はよく理解していた。だから男は誰かが何かのためにそこに置いていた、あらゆる何かのために誰かに置かれたものを見逃していた。植えられた木々も、設えられたオブジェも、待ち合わせている人も、駅の名前も。男が己の身体の断片――男の認識の極々一部のみを占めているがゆえに、男の認識の外側では広大無辺に膨張し続けている男の身体の非断片を証するそれら――と、男の存在を包むが支えはしない周囲の空間と時間と以外にその眼にしていたのは、男の父のような、男の師のような、男の上司のような、男の神のような、男にとって男以上の、男が男であり男として何かを行うに足る何かを男のものとして与えてくれるような強固な男のイメージを有した男の、墓標のイメージであった。墓標には、多くの業績が記され、「ここに死す」と結ばれている。当然のようにそれらは嘘だ。「ここ」に死すわけはない。ならばどこに死す? ここではないどこかだ。駅ではないどこか。少なくともイメージの中で男は死ぬわけにはいかない。イメージの中で生きていたことは一度もないのだから。イメージとして生き残るための墓標の在処をイメージの中に忘れ去ったところで、お前は生きることも死ぬこともできない。墓に刻む業績がないわけではないが、墓石に業績を刻むだけの広さがない。男に骨がないわけではないが、男の肉を容れる骨壷がない。男に名がないわけではないが、男の名を変える人がいない。男に纏わる記憶がないわけではないが、男のことを忘れてくれる何物もありはしない。