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演劇って……「だからビリーは東京で」

演劇って何を求められてるんだろうか。
いや、そもそも求められているんだろうか、何かを。
そんなことを考えた。

「だからビリーは東京で」観てきました。
蓬莱竜太さんの作品は戯曲を読んだり、映像で観たりしていたのだけど、生で観るのは初めてで、いやあ……なんだろう。

実は今回の作品、面白くなかった…というより、素直に楽しめなかった。
いや、しんどかった。
まあ、ある意味しんどいってそれだけエネルギーがあったってことだし、必ずしも悪い意味ではないんだけど。

でもこの「しんどい」って色んな意味でしんどくて、私の知ってる蓬莱さんの作品っていっつもしんどいし、なんならそのしんどさに切られに行くみたいな感覚があるんだけど、今回はそういうことよりも、他の観客との感覚の違い、みたいなのがひたすら、ずっとしんどかった。

ああ、ここで笑えちゃうんだあっていう。
え、ここって全然笑えないんだけど、そんなに面白がれるの?っていう。

でもそれだけ世間一般の人と私の感覚がずれてるのかもしれない。
そして観客って意外と舞台上を切り離して観れちゃうもんなんだなって。チェーホフあながち間違ってねえぞって。

きっと私にとっては距離が近すぎる物語だったんだろう。

だから笑いが起こるたびに、
ああ、どうして、舞台上の彼らはそんなに楽しめてないのに、苦しそうなのに、どうして笑えるの、どうしてそこに発生する笑いは、突き放すような笑いで、どこか遠い害のないところから傍観者で眺めている感じなのって。

劇作の授業で、「人の不幸は笑える」みたいな話題になったときがあって、その時頭では納得してるフリしてたけど、結局私は人の不幸をあんまり笑える人間ではないんだなってちょっとわかった。

でも逆に、他の人たちはあえて、現実にあるあるな不幸を笑うことによってそれをシニカルに認めているってことなんだろうか。
それほど開き直れない私ってことなんだろうか。

物語の中の、劇団の在り方もしんどくて、なんか芝居がしたいって憧れた人達が道を間違えちゃったみたいな感じで。それって全然笑えなくて、全然あり得る話だし、そうやって今のしんどい演劇業界ってあるし…なんかそうやって描かれることに悔しさとか怖さがあって。
でももしかしたら、そういう格好悪さみたいなものを、認められないっていう私の傲慢さの裏返しかもしれないのも、ちょっと自覚ある。

途中、芸術とかプロとかアマとか、駄作とか、そういう話になったりして、もちろん演劇は限られた人間しかできない、というものでは決してないし、そのハードルって絶対もっと下がるべきなんだけど。

蓬莱さんがTwitterでつぶやいていたこの言葉が本当にまさにそれで。私もそうであってほしいと思っているし、これからそういう社会を作っていきたいって本気で思う。

でも劇中、みんながわからない作品を切る姿勢みたいなものは確実にあって、観客はそれを受け入れているように見えたし、いや、そりゃわからんわ、売れんわ、みたいな空気が広がってて、ああそれって結局資本主義の賜物だよなって思ったり。
主人公が演劇に出会ってからの人生って結構悲劇的な気がして、詰んでるように見えて、それってなんか、ますます演劇嫌いになるんだけど、って思ったり。
演劇やるしか能がなくて、社会性がない演出家への周りの人達の対応とかも、別に本気で真正面から向き合うとかは絶対なくて、、、まあ蓬莱さんの戯曲って、出てくる人みんな思ってること言わない典型的な日本人みたいな人ばっかりだし、そこが面白味でもあると思うんだけど、……とか、、、

うーん…だから最後は、私達がやるためだけの演劇、だったのかな……売れるとか、お客さん呼ぶとか、そういうことに囚われないってこと。
でも演劇をやる楽しさとか、面白さみたいなことはあんまり掘り下げられてるような気はしなくて、どっちかというと劇団というコミュニティに所属していることによる充実感だったような…それって別に演劇じゃなくてもいいよな、とか。わざわざ演劇を劇の中に持ち込まなくても十分できることだよな、とか…。

でもこれって結局、私が物語に幻想とか理想とかを求めているから起こっている弊害かもしれない。

最近読んだ本に、人はフィクションの物語に「教訓」や「~すべき」とか、あとは物語がもっともらしい展開を求めやすい傾向があるって書いてあった。こういう傾向が人を一定の物語に縛り付けやすいって。

いやでもね、フィクションだから、フィクションだけは、そうであってほしいなんて思ってしまうのよ。
私にはこの世が、まだ良い世界だとは到底思えなくて、結構絶望だったりして、ある意味フィクションが唯一の逃げ場で。

そこに現実というか現実にとても似通ったものをのせられてしまうと、もうここに来てまで…ってなってしまう。
コロナでエンタメ業界がひどい打撃を受けたのは、身をもって知ってるし、それを知りつつ、まさに演劇の世界に身を投げようとしているんだけど、もうなんかコロナ禍の私達ってもう結構嫌っていうか。
どこも芝居やってる人達の芝居で飽和状態というか。

私達が現実に体験したことを舞台にのせるって、どういうことなんだろう、と考える。それが作品になることで、私たちの体験が消化されるってことなんだろうか。別の角度から見直せる、とか…?果たしてそうなっていただろうか。
私の頭が作品の仕掛けを理解していないだけなのだろうか。

色々回りまわって、行きつく先は、人間に興味がないから面白く感じられなかったのか、なんていう演劇をやっている人間として、矛盾した答えだったりする。いや、人間、というより私は人間のしがらみに興味がないのかもしれない。でもこれって致命的だよな(笑)

人間同士の関係よりも、その人間がその状況で、どう葛藤していくか、の注目度が高いのかもしれない。

他の人達はどうなんだろう。
何を求めて演劇を観に、劇場へ足を運ぶのだろうか。
それは救いなのか、気づきなのか、学びなのか、没入なのか、快楽なのか、逃避なのか、ただの暇つぶしなのか。
彼らはこの作品を観て何を思ったのだろうか。

これは果たして、「やさしい作品」だったんだろうか。
私はそれすらも掴み損ねてしまった気がする。


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