感情に左右されるということ。
朝から感情が左右に揺れ動く日。
嫌だね。
私自身は悪くないと思っていて、まあこれについては自分絶対間違ってない主義が根底にあるので良し悪しは一旦置いておいて、他人の言動で一喜一憂することを、やめたい。切実に。
どうせ報われないのだ。
他人に期待するだけ損
母が昔口にしていた。
当時の私は小学生で、どちらかというと陰鬱で、仲の良い知人は片手で数えられるほどであった。
その片手で数えられるほどの友人に対し抱く感情の増長に伴い、もしも彼女らが表面上だけ仲良くしていたいという思いであったらどうしようと、実は心の中では私のことを嫌っていたり疎んじていたりしたらどうしようと、あらぬ憶測に自分の平静を乱されていた。
上記を母に告げると、小見出しのとおりバッサリと斬られたのであった。母もわたしと同じく幼少の頃から対人関係の構築があまり得意ではなかったため、いまだに連絡を取り合う友人はほぼいないそうだ。母と私の大きく異なる点は、母は己の特性を受け入れ、周りに合わせることなく、自我を貫いたことだ。羨ましいほどに強い精神だと当時は思っていた。
他人が考えていることなど絶対的にわからない。ここでいう他人とは、自分以外のすべてなので家族も含まれる。
母が、彼女自身のどんな経験をもってして上記のようなことを口にしたのは、真意は測りかねるが、23歳になったわたしはいまでも他人に期待をしている。
期待をするから傷ついて、疲れるのだ。
そんなものに左右されることはなにひとつとしてメリットがなく、ただいたずらに時間と精神を消耗するだけだ。
静かに深く、現状の言語化能力では説明のできようのない痛みと苦しみの中、わたしは己の感情を己だけに向けたいと思っている。
他人が介在しない人生などありえないが、他人は他人であると割り切り、期待をやめたいと切に願っている。途方もなく叶えられそうにない願いを抱えてこの文章を締める。思考よりも感情が先に走っているので、後で推敲するかもしれないし、記事ごと削除してしまうかもしれない。わたしは逃れたい。感情から、他人から、期待をする自分から。