7. 自信がない人『石橋を叩いて渡る哲学』

 自信がない人

 昨今、日本人の自己肯定感や自信、自尊感情が他の先進国と比べて低いというアンケートの調査結果が度々話題になっています。調査結果だけでなく、実際に自信がないという方は多いのではないでしょうか。自分に自信がないという問題の構造を定義して認識・理解することでこの問題に対処していきます。自分に自信がないとはどのような状態だと言えるのでしょうか。

 次のシーンを想像してみてください。
① あたなは暗闇の中を歩く集団の中にいます。
② 見えるのは共に歩く仲間の様子だけです。
③ 自分・集団がどこにいるのか、どこに向かっているのか、周りに何があるのかは暗くて見えません。

 このような状況下であなたはどういう気持ちになっているでしょうか。きっと集団でいたとしても、暗闇の中にいるあなたは不安を感じていることでしょう。不安を感じるのはいつ自分または集団が危険な目に遭うかわからないからです。
 もしかしたら、この先は崖になっていてみんな落ちてしまうかもしれない。
 もしかしたら、この先は二手に分かれていて集団も分かれてしまうかもしれない。
 もしかしたら、この先は道が複雑になっていて自分だけ逸れてしまうかもしれない。
 もしかしたら、集団で争いが起こってそれに巻き込まれるかもしれない。

 自分に自信がないとはこのような状況に置かれた状態であると言えます。なぜそう言えるのか、なぜこのシーンに例えることができるのか説明します。

 まず、自分に自信がない人は自分と他人を比べてしまっていることが多いです。
① 自分と他人を比べることで両者の差異を見つけ出す。
② その差異が優れているか劣っているかを特定の評価の軸で判断する。
③ 劣っていると判断した結果、自信を失う。
 このような構造になっていると私は考えています。
よく、
 他人と比較するな。
 自分軸で生きろ。
 他人に振り回されるな。
 自分の好きなことをすれば良い。
といったアドバイスを目にします。しかしながら、私はそれができればそもそも悩んでいないと思ってしまいます。では、なぜそれができないのでしょうか。それは、自分がそうしてしまう理由があるからであり、その上で理由があるという事自体を認識していないからです。したがって、理由を見つけてその原因を取り除かなければこのようなアドバイスを実行することはそもそもできないのです。では、自分が人と比べてしまうのは何らかの理由があるのだということを認識した上で、なぜ人と比べてしまうのかということについて深掘りしていきます。

 人の行動原理は本能です。本能に従って人は生きています。私は、内向的な悩みや人間関係の悩みにぶつかった時は本能を目指して深掘りすると問題を把握しやすくなると考えています。なぜ、人と比べてしまうのか。それはその行為が生存本能そのものだからです。少しでも生き延びる確率を増やすためです。そう言える根拠は、今地球上に存在している人類は長い歴史の中で生き延びてきた種類しか存在していないからです。当然と言えば当然のことです。生き延びる行動をしていなかった種類は絶滅しています。つまり、生き延びているがゆえに生き延びるのに特化した生き物だと言えるのです。したがって、だいたいの行動は生存本能がもたらしていると仮定しても問題ないと考えられます。そのように考えると、自信がない理由には納得がいきますが、問題があります。それは、生存本能だとすれば結局他人と比較してしまうことはやめられないのではないのかということです。しかしながら、擬似的に生存本能に逆らうことはできます。なぜならば、人間は現実世界ではなく脳内に構築する脳内世界を見ているからです。つまり、生存本能に逆らうのではなく生存本能が誤認した脳内世界の危険性を取り去るために、現状を再認識することで脳内世界を再構築・修正すればよいのです。思考の要素でいうと、知識・知識体系の更新です。この再構築という機能自体も生存本能と言えるかもしれません。したがって、生存本能の誤認を解くべく、なぜ人と比べると生存確率が増えるのか。ということを深掘りします。

 人は一人では生きていけません。今まで人類は集団を形成することで生き延びてきました。そして、集団というものはときにその一員を排除します。排除される一員はその集団に応じて排除されるに至る何かしらの要因を持っています。これが、人と比べることで生存率が上がる理由になります。したがって、なぜ人と比べると生存確率が増えるのかという問いの答えとして、集団から追い出されないようにするためだと言えます。集団から追い出されないように周りの様子を伺って同調したり、集団の争いに敏感であったりするのです。しかしながら、今の時代にその本能が必要と言えるのでしょうか。原始時代であれば必要であったかもしれません。そのような時代には、集団から追い出されると生きていくのが難しかったからです。また、そのような時代では国のような大きな集団に属すること・属していると実感することはありませんでした。マズローの欲求に出てきたような集団に属することで得られるという社会的欲求は、現代の日本のような原始時代から見れば異常なほど大きな集団に属することでも得られるのでしょうか。どちらにせよ、現在我々は日本という大きな集団に属しています。これは、本能や欲求の機能が環境の変化に追いついていないという人間のシステムエラーなのではないでしょうか。今回はそのギャップによって生じているエラーを憲法・法律・社会制度の知識体系から自分の置かれた状況を把握することによって修正します。自分の置かれた状況を把握することはある意味で世界の定義と同じです。

 事実として2024年現在の日本では、生存権(日本国憲法第25条)が存在しています。それを成立させるためのセーフティネットである生活保護という制度も存在します。生活保護は実際には水際作戦などと呼ばれる、生活保護の申請をしにきた人を巧みに申請から相談という形に誘導することで申請そのものをさせないようにする実態も報告されており、実際に受け取るべき人が受け取れていない、捕捉率が低いという現状があります。そういった実態はあるものの、事前にそういったことを把握した上で、申請を行えば生活保護は受けることができます。要するに、日本という大きな集団に属していれば、万が一、会社や学校、友達や家族などの目の前の集団から追い出されたとしても生き延びることができるのです。したがって、生存本能の要件はそもそも日本に住んでいる以上満たせているということです。日本に属していることと憲法とそれから成る制度を根拠に、集団から追い出されることはない。ということになります。したがって、日本に属している我々は人と比べる必要はないと言えるのです。

 最初のシーンに戻ります。暗闇とは日本(世界)を表しています。日本という大きな集団に属しているという認識がなければ、その人にとってみれば暗闇です。そして、周りの仲間は会社や学校や友達や家族といった身近な集団が該当します。憲法・法律・社会制度の知識体系から現状を把握し、自分がどの位置にいるのか、どの状況に置かれているのかを理解すれば自信がないという状態の自分を俯瞰することができ、不安になる必要はなかったのではないかと思えるかもしれません。

 世界の定義による考察

 本能を軸にすることで憲法や社会制度などの具体的な要素を用いた解釈をしました。しかしながら、我々はすでに石橋を叩いて渡る哲学で世界の定義をしたのではと思われたかもしれません。実は世界を定義した際に、私は、自信に関連することを述べていました。ここからは定義した世界に基づいて自信がないということがどのような構造であるのかを認識していきます。

 世界の定義による考察のメリットはここで示す根拠自体が他の問題にもそのまま応用できる点です。先程の本能を根拠とする解釈は「本能を基準にして遡ることで構造を把握する」というある意味での作業体系(方法論)のようなものでした。この作業体系では、世界を日本という限定されたものとして定義したため、最終的には日本国憲法が根拠となりました。これは偶然日本国憲法があったからよかったものの、すべての問題が憲法を根拠に解決可能だとは思えません。これは人によるかもしれませんが、私は、丁寧に積み上げてきた哲学を根拠とするほうが考えが揺らぎにくいと思います。その分、納得できるかが問題にはなりますが。

 最初のシーンの中で、暗闇の中にいるということが問題の本質でした。例として、夜中に真っ暗な中でトイレに行くことを想像してみます。目が覚めて暫くの間、目を開けていても真っ暗で何も見えません。ただ、早くトイレに行きたいので何も見えないままトイレを目指します。この時どうやって暗闇の中を進んでいるのかというと、部屋の構造を記憶から引き出して擬似的に記憶にある部屋(世界)を暗闇に投影しているのです。壁にぶつかったり物を踏んだりすることもあると思いますが、進めます。つまり、精度に問題があるにせよ、暗闇である部屋は、記憶を材料にして定義することで暗闇ではなくなるということです。世界をある概念に置き換えて認識するという行為はこのような機能を持つのではないでしょうか。

 ここで、一度「自分の定義」を思い出してみます。
仏教的世界観では、
 「人間は生き物が空間的・時間的により広く媒体として機能するために生まれたものである」
でした。簡単に言うと人は媒体である。ということです。
シミュレーション仮説では、
 「人間は環境に合わせて独自の動きをする、世界という大きなシステムを構成する小さなシステムである。」
でした。簡単に言うと人はシステムである。ということです。

 さて、世界・自分の定義によると、仏教的世界観では人は「媒体」でした。そして、シミュレーション仮説では大きなシステムの一部であるの小さな「システム」でした。どちらも共通して固有の機能はありません。ただ、それぞれに一見して違いがあるように見えます。しかし、その違いは「媒体」からすれば周りの物質、「シミュレーション」からすれば入力として与えられたパラメタ(環境)によって本来は同じ機能を持っているが結果的に他と違う振る舞いをする。そして1人1人違う振る舞いをしている事自体が「媒体」として「システム」として機能しているという説明ができます。よって、そもそも他人と比較することで自信を失っていましたが、他人との差異があることが必然であり、1人1人環境によって出力が異なるという構造から考えれば違いがあること自体が自然だと言えます。そして、その入力は意図的に決められるものではなく偶発的なものです。よって、無理やり他の機能に見える出力を真似ようとする必要はなく、ありのままで良いと思えるのではないでしょうか。

 能力とは

 自信がないという状態について能力の観点からも考えてみます。自信には能力が深く関係しています。能力とは漠然とした抽象的な概念であり正確な定義はありません。それゆえ、人の能力を評価する際に使われる一般的なものさしというものが存在します。大抵の場合、その一般的なものさしが指し示すものは数値です。その数値とは、学校のテストや知能検査(IQテスト)によって算出されるスコアや会社での利益などさまざまです。なぜ数値が現代社会において重要視されるのかを考えると、資本主義社会という前提はあるものの、数値自体が情報としてはっきりしていて認識しやすいことにあると考えられます。簡単に測ることのできない能力を評価するには労力がかかるのです。このような、一般的なものさしとして使われているテストなどで測られる能力を認知能力という言います。対して、テストなどで測ることのできない、誠実性や好奇心、共感性、自尊感情、マインドフルネスなどの能力は非認知能力と言われています。自信がない人の多くは誰かからの評価対象となっている何らかの能力という漠然とした概念にとらわれることで自信をなくしているのだと思います。しかしながら、非認知能力のようにあるものさしでは重要視されにくかったような能力が存在するということを考えると、結局のところ誰の能力が高いのかはものさしによって変動するため、自分が能力が低いのかどうかを考える事自体が無意味だと思えるのではないでしょうか。

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