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祝福される、ということ

3年前の今頃、姪っ子の卒園式に参加したことが時々思い出される。

姪っ子は仕立ての良いブレザーに身を包んでいた。

髪型は姉がセットしていて、まだ毛量の少ない自毛に100円ショップのエクステを足してボリュームを出していた。

完璧ではないが、彼女の毛量、癖をよく理解した人物のセットには素人が決して踏み込めない美しさがあり、見事だった。

姪っ子自身もとても満足している様子だった。

私はその可愛さを本人に、きとんと言葉で表現したように記憶している。

姪っ子は卒園式の最中に私の姿を見つけると、必ず笑顔を送った。私には彼女が他の園児よりも輝いて見えた。

気を抜くとなぜか涙が溢れた。

卒園式にはいくつかのプログラムがあるが、その度に泣けた。

卒園生自らが歌う時、

保育園で過ごした思い出を卒園生が一人ずつ短く語る時、

在園生が贈る歌を合唱している時。

自分のよく知っている姪っ子、よく知らない子ども達。

最高でも5年程度しか生きていない生き物が、おそらく「卒園」という意味を真には理解していないものの、目の前で社会的な行動をしている。

この生命ひとりひとりが、望まれて、あるいは意図せずに母親の子宮に宿り、

しっかりと子宮で栄養を受けこの世に産み落とされ、ここまで育ち、卒園という節目に送ったり送られたりしているのだ。

私はその当事者たちの遠い関係者として、その命の背後にあるドラマを想像し、勝手に涙していた。

さらには、彼ら彼女らのこの先の人生において、いつも楽しいこと、嬉しいことだけが待ち受けているわけではないことにも泣けた。

やはり、私は生きることにひどく疲れて感傷的だったのだと思う。

卒園式の終わり、園長先生の言葉が強く心に残っている。

「人に祝福されたという経験が、彼ら彼女たちの今後の人生にいかに役立つことだろうか」

そういった旨を園長先生が語ってくれた。

まったく叶わない、素晴らしい境地を迎えた人間の言葉だった。

しかし、きっと私もそう思って、今でも甥っ子姪っ子たちに接しているのだ。

いつか生きることに疲れて、投げやりに自分や他人を傷つけて生きたくなった時に、

ひとつひとつの階段を転げ落ちる時に、

自ら転げ落ちたくなった時に、

少しでもその転げ落ちるスピードが落ちるように、最後の歯止めになるように、

記憶に残るかもわからない、しかし重要なその瞬間ごとに、今は祝福を、愛を贈っているのだ。

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