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さめざめの保健師の根幹部分ってなんだろうな

川岡さんが飲み会を企画しました。
川岡さんってのはアイディアマンですので、面白いことを沢山思いつくのですが、その中でも特に面白いイベントです。

保健師ってみんな面白い人たちです。
人を守る人たちです。
その人たちが想いを持って集って、酒の力を借りながら想いを伝えあうってのは、とても価値があることだと思うんですよね。

で、その中でさ、
「さめの保健師の根幹部分はなんなの?」
って話になりました。
川岡さんからさらっと聞かれた話。

なんだろうね。
言語化してみよう。

東日本大震災

ぼくが大学生の時に東日本大震災がありました。
皆さん覚えておられますでしょうか。

記憶に残っていないでしょうか。
それならそれでいいんです。

ぼくは東日本大震災の時に大学生でした。
バレー部でした。
バレー部の部活中に東日本大震災が起きました。
バレー部って知っていますか?
沢山のボールが体育館の天井の梁に引っかかるんですよ。
東日本大震災のその瞬間に天井の梁に引っかかったボールが全部落ちてきたんですよね。
すごく印象的でした。

地震の後、学生のぼく達にできることってほとんどなくて。
まずは知り合いの大学生が生きているかを確認することから始めたんです。
そこから、米を集めて、野菜を集めて炊き出しをしました。
大学生協と連携して炊き出し資材も確保できました。
体育館を避難所として開放して大学生協とともに炊き出しを継続できました。
地域の見回り活動を始めたんです。
家から出られないおばあちゃんがいたからおにぎりを届けたんです。
他の避難所を見て回って、学生の力が必要な時は連携もしました。
それで助かった地域住民はいるんです。
急に大学側から「4トントラックに乗って東京に物資を取りに行ってもらえないか?」って話も出たんです。
でも、今やらなきゃいけないことがたくさんあったから断ったんです。

あの時、ぼくは国家試験もやっていない、何の資格もない学生でした。
実習も始まっていなかったから保健師の卵ですらなかった。
それでも、その時にできることをしたんです。
それで助かった人がいたんだと信じてやったんです。

何も資格が無くても、何も立場が無くても、「自分がやらなきゃいけない」と思ったことを行動にできれば成果は出る。
ちっちゃな覚悟が人を救ったんです。
その記憶がぼくの根幹にある。

彼女と連絡が取れなくなった

東日本大震災当時、僕の妻は当時は彼女で、付き合って3~4か月ってくらいでした。
僕の妻は海辺に実家があって、学生当時は海辺の実家から大学まで通っていました。
そんな中での東日本大震災。
震災直後に彼女に連絡が取れなくなった。
電話もメールもつながらない。
もしかしたら…
もしかしたら死んだかもしれない。

事実もわからないまま、学生のぼくは喪失感を感じていて、喪失感を埋めるために炊き出しをしていた記憶があります。
気を紛らわせるためにカホンとギターを出して歌っていた気がする。
まずは近くのできるところから始めないと。
責任感と使命感がぼくを動かしていました。

数日たったある日。
急に彼女が出てきました。
海辺から4時間ほどかけて自転車で来たと。
会った瞬間、なんだかわからない気持ちが溢れてわんわん泣いた。
津波被害はそこまで大きくなかったけど、車も交通機関も止まって、なんとか生活を維持するのにいっぱいいっぱいだったと。
水も出ていなくて風呂に入れていなかったと。
生きててよかった…
生きててよかったって本当に思うんです。
ありがたい。

ぼくのところは水が出始めていたから、風呂に入れて、米を炊いておにぎりを持たせてやりました。
少しでも生きていてもらうようにその時にできることは食べ物を渡すことだけでした。

そこから少しずつ交通機関が回復し、海辺まで行けるようになりました。
海辺は悲惨でした。
道の端に車が積まれていた。
電気もついていなかった。
それでも、みんな生きていました。

生きているってだけで嬉しかったんです。
ありがたいな。

死んでないからいいじゃない

良い生活をしようとするってのは良い欲望だと思います。
おいしいものを食べたいよね。
いい暮らしをしたいよね。
欲しいものをお金を気にせずに買いたいよね。
向上心を伴って動こうとすること、新しいものを探すことって生きる上での活力になります。
でもそれは、「死んでない」からできることなんだと思うんです。

死んでないってことは可能性があるんだ。
生きているってことは可能性があるんだ。

ぼくは東日本大震災の後から、
「死ぬわけじゃないからやってみよう」
って話をするようになりました。
あれだけ人が死ぬことがあったんです。
今生きてるだけで儲けもんだよ。
死ぬようなものじゃなかったらやってみようと思うんです。
努力とか苦しみがあるかもしれないし、コンフォートゾーンを脱する辛さがあるかもしれない。
でも、「死ぬわけじゃない」んです。
それならやってみようと思うんです。

生きていることに感謝を。
死なないなら挑戦を。

今、地域包括支援センターで話していること

それとは別に、「死なないようにする」ってのは意識するようになりました。
まだまだ課題なんだけど、保健師として目指すポピュレーションアプローチとは別に、ハイリスクアプローチの重要性を感じています。

ポピュレーションアプローチって大事なの。
健康を増やして広げる作業ってめちゃくちゃ大事。
健康って単純に幸せなことだと思います。
幸せの基礎となる部分だと思うんです。
みんなが幸せになるための土台作りが健康づくりだと思う。

ただ、ポピュレーションアプローチに引っかからない無関心層ケースってあるじゃないですか。
医療にも関わっていない、地域とも関わっていない、ついでに親戚とは切れていてキーパーソンがいない、お金もないのに行政と繋がっていない。
そんな人が地域にはゴロゴロいます。
そんな人を最低限のところまで繋ぐ。
地域包括支援センターとしてのハイリスクアプローチってめちゃくちゃ大事なんだと思うんです。

こんなケース、1つもお金にならないのよ。
委託型の地域包括支援センターとしてはケアプランもサービスも繋がらないでただ労働力が取られて神経をすり減らす作業。
それでも、それをやることには価値があると思うんですよ。

だから、ぼくは地域包括支援センターで、
「書類とか会議とか研修とか、お金につながる必要なことはあるんだけど、命以上に大事なことはない。だから、死なないことだけ守れ。」
って話をしています
もっとポピュレーションアプローチがしっかりできてハイリスク者のいない地域なればいいと思う。
それでも、潜在的なハイリスク者は必ずいる。
だからこそ、「死なないこと」を忘れちゃいけないと思います。

忘れることと残すこと

「死なない」って大事。
「生きてる」って大事。

東日本大震災はそういうことを教えてくれました。
教えてくれたからといってもう一回同じのがあるのは嫌だね。辛い。
でも、いつかは同じような出来事が起きるから忘れないでほしい。

っていう中で、
川岡さんから映画の紹介が。

東日本大震災の後の仙台の話が題材らしいの。
これを見た川岡さんが、
「わしもボランティアに行ったんだけど、今になっては薄れてきてしまったね」
って話をしたんですよ。

でもさ、忘れてしまっても、そこに知見は残るはずなんです。
次の震災に対応するための防波堤の建設もあるじゃない。
今の小学生たちがやっている防災訓練ってぼく達が小学生の時には考えられないような高度なことをやっているよ。
防災を皮切りに、「地域で繋がること」の大切さから地域が結託するってのもあるじゃない。
だから、みんなが東日本大震災を忘れても、そこに残った知見は残るんです。

保健師は結核予防からスタートしたじゃない。
でも、現代では結核予防は当たり前になって、その成り立ちやその時のエピソードを覚えている人は多くないじゃない。
でも、今も結核予防は続いているし、他にも人を健康にするシステムは増えてきている。
忘れても、知見が残る。
そこで生まれたシステムが今のぼく達や未来の子供達を救うんだ。

そういうことでいいんだと思うんです。

たぶんね。



最後に言いたいのは、
「生きてて良かった」ってことなんよ。
生きているだけで儲けもん。
死んでないからいろんなことができる。
だから、みんな生きていておくれ。
死なないように守って、逃げて、生きておくれ。


みんな、大きな声で言おうよ。
「生きてて良かった!」

はい、最後の曲になります。
聴いてください。

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