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37歳の誕生日を迎えたと思っていたが…

#昭和の恋愛小説 #中編小説 #登場人物少なめ  # #50000文字 #女性目線 #三十路バツイチ #パラサイト生活 #時間は残酷で凶器   #歩み出す勇気 #コンプレックス

あらすじ
大学時代の同級生と4年間の付き合いを経て、25歳で結婚したところまでは、綾香の人生は予定通りだったが、わずか2年で離婚することになってしまった。夫の実家では家族ではなく、他人としてしか受け入れられなかったことに耐え切れなかった。とりあえず横浜の実家へ戻り、すぐにでも人生をリセットすべく再婚をするつもりだったが、母の他界と弟の結婚で実家は父と自分を残すだけとなってしまい、一人残されてしまう父のことが心配なことと、実家の気軽さにどっぷり浸かってしまい、35歳になっても実家暮らしを続けていた。綾香の予定ではこの歳のときには二人の子供を育てているはずだった。8年間のバツイチ生活はお金の心配もなく、自由を満喫できていたので、充実した生活を送っていると言えていた。しかし、35歳という歳になり、周りの友人達と自分を比べると、いつまでも何も持っていないことこのままでいいのだろうか?と疑問を感じるようになった。夫・子供・定職、綾香が欲しかったものは何ひとつ手に入れていなかった。中年太りをはじめとして徐々に身体が衰えていくことを自覚すると、少し焦りのようなものを感じた。綾香の中で変わらないのは、アニメ声優のような高い声だけだった。この高い声のおかげで35歳になっても20代に間違えられることがしばしばある。若く見られるのは、この歳になると喜ばしいことだが、どうやら恋愛には向いていない声らしい。この声だとどうにも相手に真剣さが伝わらないから、ついおどけてしまう。それでも綾香のことを望んでくれる男性はいたが、楽しんでいるバツイチ&パラサイト生活をかなぐり捨てるほどの決断はできずにいた。そして30代後半戦が間近に迫った綾香の人生の選択は…。

【1】
ゴクリ。ビールが喉を通る音が春のあたたかな日差しの下で大きく感じた。
綾香は父と二人で暮らすマンションのベランダに一人でいた。キャンプ用の布張りの椅子に座って、ぼんやりと缶ビールを飲んでいる。仕事が休みのとき、午前中のうちに家の用事を済ませ、午後ゆったりとこのベランダでビールを飲む。綾香がお気に入りの過ごし方のひとつだ。今の季節は目の前に桜が花をつけていて特に気持ちがいい。昼間にアルコールを飲むと夜に飲むときより酔いが回るのが早く、2本目の缶ビールがもうすぐなくなるところでうとうとしていた。眠い身体を引きずって、自分の部屋に戻りベッドに倒れこんだ。このまま昼寝するのも楽しみの続きのうちだ。昨年の桜の時期にも同じようにして昼寝をしたことを思い出したら、もっと前からそうしていたことも思い出した。
私が生まれ故郷の横浜に帰って来て、もう八年になる。夏が来ると30代も後半戦に突入してしまう。母が私の年齢のときには、15歳になる私と13歳の弟を育てていた。私が20歳の頃に思い描いていた自分の人生計画では、こんな予定ではなかった。予定では今頃、二人の子供と旦那の四人家族で幸せな家庭を築いていたはずだった。休日の昼間にひとりで缶ビールを飲み昼寝をしている自分に憤りを感じた。
(どうしてこうなってしまったのだろう?)
25歳で結婚したのは予定通りだった。今でこそ晩婚化が進んで、20代後半に初婚でも遅いとは言われない時代となったが、私が20代の頃は25歳が【クリスマス】と言われ、26歳以降は25日のクリスマスケーキのごとく、叩き売りしなければ結婚できないと言われていた時代だった。つまり女としての価値が下がるということだ。そうなれば当然相手の男性への期待値も下げなければいけない。だから私の周りの女性達もこぞって25歳までに伴侶を決めていた。女性達を焦らせる風潮が私のようなバツイチの女性を増やしたのかもしれないと、今では思ってしまう。現実に私と同年代のバブル景気を知っている女性は、独身率が高い。私なりの見解では、この世代の女性達は華やかさを味わってしまったことで、家庭に入ったときのギャップを感じてしまい、我慢がきかない女性が多いからだと思っている。電車の中や学校で理不尽なことを要求するバカ親が増えたのも私たちの世代からだ。
私は25歳のときに家族や友人から祝福されて結婚した。ここまでは何も問題はなかったはずだ。27歳で予定外の事態が起こった。2年間の結婚生活にピリオドを打つ決意を、私は選んだのだ。恐らくここから、私の人生の歯車はどこかが狂いはじめてしまったのだろう。
私の過ちは【予定】というものに焦ったことで、世の女性と同様にやや勢いで結婚してしまったことにある。【あの頃は若かった】と10年経った今は思えるようになった。
離婚の理由は旦那が浮気した訳でも、私が彼のことを嫌いになった訳でもない。大学時代から四年間付き合っての結婚だったので、旦那自身のことは十分理解しての決断だった。お互いが本当に一生一緒に過ごしたいと言える間柄だったし、元旦那のことは【惜しいことしたなぁ】と後悔するほどイイ人なので、旦那の選択を間違ったわけではない。風の便りに私と離婚してから3年後に再婚したと聞き、本気で【あの人が幸せになって欲しい】と思えた。
私の過ちは、【結婚は本人達同士の問題】だと思っていたことにあった。どんなに逆境であっても、本人達さえ関係を保つことを望めば、続けていけるものだと誤解していたのだ。
そう、結婚は恋愛の延長線上のものだと、10年前の私は思っていた。家と家が結び付くことにまで考えが至らなかった。私は家族というものを自分の家族を基準にして考えてしまっていたのだ。例えば、私も普通の女性が望む結婚式のイメージ通りに純白のウェディングドレスを着ることに憧れていたが、旦那方の要望で私は和装だけしか着させてもらえなかった。私の父は【バージンロードを私と腕を組んで歩くことが、娘が生まれたときからの楽しみだったのに】と、結婚式の帰りに母にそっと漏らしたらしい。今でこそ私は中年太りで【恰幅が良くなった】と笑われ、【和服を着たら似合いそうだよね】と冗談混じりに言われるが、その当時はそれなりの体型を維持していたので、ウェディングドレスだってそれなりに似合ったはずだ。やっぱり女としてウェディングドレスが着られなかったことは、寂しい気持ちになる。この歳になれば、似合わないことは重々承知しているが、それでも一度は着てみたいと思ってしまう。それほどあの純白のドレスの魅力は高いと今頃になって判り、旦那の両親を説得して、せめて写真だけでも残しておけば良かったと思ってしまう。旦那の実家は仙台、私の実家は横浜だったので式もその中間で行うのが普通だろうが、旦那方が頑として譲らず仙台で式をすることになった。
披露宴の最中、スピーチの度に【ご両家】と何度も発せられていた言葉を、結婚して旦那の実家へ住むようになって、私はようやく理解した。結婚という儀式は旦那と私の結婚を祝うものではなく、旦那の家の長男と私の家の長女との結婚だということが、そのときには判ってなかった。
離婚を選択してしまったのは、自分に我慢が足りなかったからだとこの歳になって思えるようになった。私は結婚を境に勤めていた歯科技工士のラボを辞め、生まれたときから住み慣れた横浜を離れ、旦那の実家がある仙台へ嫁つぐことになった。旦那の実家は裕福とまではいかないものの、私一人が増えたところで家計に支障がない位のいわゆる上の下の家庭だった。家業は歯科の開業医で、一人息子だった彼はいずれ家業を継ぐことになる。歯科医と歯科技工士が夫婦というのは、この業界ではそう珍しくはない話だ。大学時代の仲間同士でも何組かが結婚していた。私達もそのうちの一組で、この組み合わせの披露宴会場は、呼ばれる度に消毒用のアルコールが充満しているような気がしてしまう。
私が結婚したときには両親ともに揃っていたが、離婚して私が横浜へ戻ってすぐに、母が他界した。あんなに明るく生きていた母が、突然脳梗塞で死ぬことは予想もしていなかった。母が死んだ原因の1つが、私が離婚したことで母を心配させてしまったからではないかと、今でも自責の念にかられることがある。ある日突然亡くなってしまったから、それを母に問うことはできなかった。母が死んでから、不器用な父なりに母のことをとても愛していたことを知った。それまでは仲が良かった父と母の関係が、世間一般でいう普通の夫婦であると私は思っていた。しかし、いざ自分で夫婦という関係を築き、旦那の両親の関係を見た後に自分の両親を見ると、こうゆう夫婦が正しいのだろうと思ってしまう。それまでは夫婦=仲が良いのが当り前のことだと私は勝手に思っていたのだ。
五人兄弟の長男である父と三人姉妹の末っ子の母は、9歳の年齢差があったのでまるで兄妹のような関係だったように今では思う。厳格で判断力に優れた父は一代で数ヶ所の工場を持ち、その業界ではトップシェアを持つ企業のオーナーとなった。何度か父の会社を訪れたことがあるが、社員は父のことを尊敬の眼差しで親しみを持って【社長】と呼んでいることを、私は子供ながらに誇らしく思っていた。今は後進に社長の座は譲り、会長職として父は悠々自適な暮らしをしている。
そんな父に母は頼りっぱなしだった。子供の頃から末っ子として甘やかされて育ってきた母は、いつからか娘の私から見て私より子供に思えた。私達母子をある程度知っている親戚などに、【母と私とどちらがしっかりしているか】と尋ねれば、殆どの人が間違いなく私だと答えるだろう。そうゆう意味では女らしい女だったと思う。母が父なしで出来ることは家事位しかなかったのではないだろうか。その家事でさえ、新しい掃除機や洗濯機を買うと、しばらくは父や私に聞かなければロクに使うことができなかった。毎回のように同じことを尋ねても、父は笑って母に辛抱強く教えていた。私は父と違って寛大な性格は持ち合わせていないので、「いい加減覚えてよ」と母に対して腹を立ててしまっていた。
父は母のことが、何歳になっても可愛くて可愛くて仕方がなかったのだろう。
母は私とは正反対に、結婚することで幸せを得た人だったとつくづく思う。甘えるのがうまく、自由奔放だった母は、何でも許し・支えてくれる父を得たことで、より自由を味わったに違いない。私は母と違い、結婚で不自由さを身に染みて味わった。近所に買い物へ行くことでさえ、旦那の家族の誰かに許可を得なければならなかった。私にとってあの家は監獄同然だった。
私は歯科技工士という国家資格を持っているので、技工士の職にさえありつければ、日本国内でなら自分一人が生きていくだけのお金を稼ぐことはできる。つまり手に職がある私が、自分のものを買い物に行くことさえままならない生活をしいられていた。旦那の家での私の仕事は家事手伝いだった。あくまでも手伝いなのでそれらは全て義母に決定権がある。今日のおかずさえ私は決めることが許されなかった。ただ義母の指示をこなすだけだ。だからその仕事をするのは私である必要性は全くない。ただ単に息子の嫁で、家政婦のように給料を払わなくて済むことが違うだけだ。
私には1円たりとも自由になるお金はなかった。実家から持ってきた下着のゴムが伸びてしまったので、新しいものを買いたいと思っても、それを買うお金を旦那の家族からめぐんでもらわなければ、新しい下着が買えない状況だった。どこかへ飲みに行きたくてもお金がないので飲みにも行けない。人間が外に出れば、何でもお金がかかるということを実感した。私が息を付けるのは義母に買い物を頼まれたときに一人で出掛けるわずかな時間だけだった。そのときはお遣いを頼まれた子供のごとく、ウキウキして家を出た。しかし喫茶店でコーヒーを飲むお金はないので、仕方なくショッピングモールの無料休憩所で無料のお茶を飲むのが楽しみだった。何故私がそこまで縛り付けられなければならないのだろうという疑問が積もり積もって2年で爆発した。旦那の家族から逃げ出したくなり、離婚することを決意した。
元旦那の家族は私の離婚の申し出に猛反対だった。
しかしその理由はよくよく聴けば私という存在が必要で反対していたわけではないと理解できた。反対の理由は、自分達の長男がキズモノになるのが困るというだけの理由だった。
仙台郊外の一時間に一本しか電車が来ないような田舎町で家業を営む義父母にとって、いずれ長男である旦那に家業の歯科医を継がせようと決めていただけに、離婚という泥水は避けたいというのが彼らの本音だった。つまり私以外の人でも、元旦那が好きで義父母の言うことを素直にきく女性であれば、誰でも事足りることだ。義父母にとって、旦那の嫁が私である必要性がないことを思い知らされ悲しかった。
田舎町の情報は驚くほど早い。他に刺激がないからなのだろう。離婚を切り出した一週間後には、町中全ての人が離婚することを知っているかのようで、ヨソ者を見る眼で私を見ていた。私がここへ嫁いで来たときも同じような眼だったが、あのときはまだ好奇心の方が強かった気がする。離婚が決まってからは、敵意に満ちた眼をしているように思えた。隣近所に住む人の名前さえよく知らずに暮らせてきていた実家と、昨日何処へ行ったかさえも、翌日の夕方には筒抜けになってしまう田舎町との距離感の違いも、ここから出て行きたいと思った要因の一つだった。
元旦那の両親は離婚を考え直すよう、私に対して説得した。私たち夫婦用に家を建てるなどの私を引き止める条件を色々出してきたが、私はここから逃げ出したい一心で全てを跳ね除けた。私の決意が動かないことを悟ると、それまでの猫撫で声とは手を翻したように私に冷たくなった。その時点で私という存在は、義父母にとってはお払い箱で厄介者に映ったのだろう。
それから義父母は離婚にあたっての交渉段階に入った。子供がいた訳ではなかったので、財産分与と慰謝料をどうするかということだ。私は子供の頃からどうもこうゆう交渉ごとには向いていないし、自分の意見を相手に伝えるのが苦手だ。だから恋愛も専ら受け身体質で生きてきた。そんな私が離婚したいと言い出したのだから元旦那はさぞ驚いたことだろう。
私が【何もいらないから】と答えると、義父母は満面の笑みでそのことを喜んだ。そして私の気が変わらないうちにと思ったのか、あっという間に慰謝料や財産分与を離婚後にも請求しない旨の公正証書を用意してきた。後で離婚経験のある友人に話すと【もったいない。貰えるものは貰っておけばいいのに!】と口惜しそうに言った。私はもったいないと思うより、まずはあそこから逃げ出すことだけしか考えられなかった。後先のことを考えない能天気さは、母の血を受け継いでいるみたいだ。
私がその公正証書にサインをしたときに見せた義父母の安堵の顔を私は一生忘れられない。彼らにとっては大事な家業を継ぐ長男と家の財産を守るのに必死だったのだろうが、私がサインを終えて顔を見上げたときに一瞬見せた顔は、悪魔に魂を売り渡している契約書にサインした気分だった。
その後の手続きはあっという間に終わった。パラフィン紙のようなペラペラの離婚届に私がサインをして判子を押すだけだった。その他の欄は公正証書にサインする前から準備してあったのだ。ある意味では百人以上を集めた結婚式の派手さと比較すると、離婚は呆気ないものだと少しだけ寂しく思った。
結婚にしても離婚にしても、愛だの恋だの理屈をこねるが、結局は紙切れ一枚で左右されるのだ。結婚は契約なのだと、ある友達の結婚式に呼ばれたときに思った。キリスト教とはそれまで縁がない、その場限りの二人の信者が、【愛の誓い】だといって宣誓する。健やかなるときも、病めるときもという件である。離婚してから結婚式に呼ばれる度、この宣誓を聞くとつい疑ってしまい、【本当に?】と本人達に聞きたい衝動にかられる。
その疑い通りに、何人かの友人は私と同様に離婚をするハメになった。
男性から見た【結婚】というものも、離婚の手続きを色々してみて少しだけ判った気がする。日本の法律では、結婚を決めた時点で男性には責任が生じるのだ。そして、その責任は年を追う毎に積み立て保険のように、慰謝料も累積されていく。離婚経験のある知人に言わせると、たった二年結婚していただけで、慰謝料と結婚していた期間中に増えた財産の半分を法律的には女性側が享受する財産分与という権利があったのにと自慢げに教えてくれた。もし高所得の男性が、彼女のように家事もしないで遊びまわっているだけの女房を掴んでしまった場合は、最悪だろうなと女ながらに思った。家事もしなけりゃ、稼ぎもしない。あげくに散在するは、慰謝料は取られるは、貯蓄の半分を持って行かれるというのは、あまりにも男性がかわいそうだ。その知人の夫は高級車が余裕で買えるほどのお金を彼女に支払ったらしい。あまりにも理不尽な法律だ。私が男性に生まれてこんな制度を事前に知っていたら、結婚したくないと思ってしまうだろう。
公正証書と離婚届にサインした数日後、私は念願かなってあの家を出て行くことができた。
その日、2年間同じ屋根の下で暮らしたはずの義父母は【みっともないから】と言って、玄関先にさえ出てはこなかった。元旦那だけは【荷物があるから】と義父母に言い聞かせて、駅まで車で送ってくれた。荷物といってもスーツケースとボストンバックが1つずつだった。こっちへ引っ越してきたときの量と殆ど変わりない。そのことが、私の2年間の結婚生活は何も増えてはいない、無駄な月日だったと思えてしまった。
田舎にありがちなプラットフォームが1つしかない、踏切も必要がない平屋の小さな駅で、元旦那だけが、この田舎町から出て行く私を見送ってくれた。
旦那は電車の扉が閉まる寸前に、
「元気でね」と最後まで優しい言葉をかけてくれた。その言葉を私に言ったときの元旦那の表情は、今でも目を閉じればいつでも思い出すことができる。それぐらい彼の顔は私を大事に思ってくれていたことを、私に感じさせた。
私はその言葉を聞いて、(何でこの人と離婚しなきゃいけないのだろう?)と思ってしまった。今の自分だったら、駅で彼の言葉を聞いたら間違いなく扉が閉まる前に、彼の腕の中に引き返せる自信がある。しかしあのときの私は扉が閉まるのを、涙をこらえながら見ていた。
そういった思いや、心のどこかで元旦那のことを惜しいと思い続けていることが、私が次へ進めなくなっている要因の一つになっていると思う。あの田舎町の駅に、時間と場所が戻れるのであれば、戻りたいと願ってしまう。
(時が戻ればいいのに…。)

【2】
私は元旦那の実家がある田舎の駅から、1両編成の電車に乗り仙台駅へ向かった。仙台までは1時間ほどの距離だったが、結婚していた2年間を電車の中で振り返っていたら、堪えていた涙が溢れ出てきて涙が止まらなかった。こんなに涙を流せることに自分で驚いた。涙が止まることなく終点の仙台に着いた。仙台駅へ来たのは、結婚したとき以来だった。お金の融通がきかなかったので、2年間実家へ帰ることもできなかったのだ。
仙台駅で洗面所に入り鏡を見たら、泣き過ぎて眼の周りがはれぼったくなっていた。
実家のある横浜へ向かう為に東北新幹線に乗り換え、新幹線が動き出した途端に、仙台駅で買った缶ビール2本を一気に飲み干し、私はそのまま眠り込んだ。そうしないと明るい車中で泣き顔を見られてしまうことが恥ずかしかったからだ。私の泣き顔を見て、まさか離婚して実家へ帰るところだと想像できる人はいないだろう。
離婚して逃げだしてはみたものの、この先どうするかはまだ考えたくなかった。会社に不満があって転職したいときなら、通常は次の会社を決めてから、辞表を出すのだろうが、結婚に関してはそうはいかない。男性ならまだしも、女性は法律上の規制で半年間は次の人と結婚することは認められていない。私は女性だからか、この制度はどうも腑に落ちないと思ってしまう。男は明日にでも別の女性と結婚できるが、女性は6ヶ月経たないと結婚できないなんて、あきらかにおかしいし納得がいかない。前の旦那の子供を身篭っている可能性があるからというのがその理由だろうが、戦時中ならいざ知らず、これだけ医学が発達した世の中であれば、エコー検査を受ければもっと早く判別がつくし、DNA鑑定という手段もある。その6ヶ月の間に結婚したい人が現れ、その人の余命が半年未満だったらどうするのだろうかと、意地悪なことを考えてしまう。相手の男性が死ぬことが判っていて、私と結婚することが彼の一生で最後の願いであったとしても、離婚後半年間はその願いを私はかなえてあげることができない。私が逆の立場だったら…とも思ってしまう。
まぁ、そんな心配は離婚後半年どころかそれ以上の間、杞憂に終わっている。元旦那の子供は身篭っていなかったし、結婚したいと思う相手も半年どころか8年も現れていない。
嫁いでたったの二年で帰ってきた私を、母は新しい友達ができたかのように喜んで迎え入れてくれた。弟は結婚を決めた女性がいて、そろそろ出て行くことになっていたので安心して出て行けると歓迎してくれた。父は帰って来た当初は、【先方様に顔向けできない】と私が離婚したことに不満気で、少し家の中の空気がおかしかったが、しばらく一緒に暮らすうちに、私が嫁ぐ前の父母と私・弟の仲がよい4人家族に戻っていた。
離婚の傷から立ち直るのに時間が必要だと思ったので、定職には就かず、たまたま新聞折込のチラシに出ていた求人広告の中から、大手チェーンの飲食店でアルバイトをすることにした。普通なら歯科技工士の仕事を探すのだろうが、旦那の実家を思い出すことがイヤで歯科関係から離れた仕事にしたかった。資格があるのでその気になればいつでも定職に就くことができる安心感もあったからだ。アルバイトで許されるのは、実家に余裕があったからで、親のおかげで苦労せずに済んだ。女の一人暮らしとなれば、定職に就かざるをえないだろう。もっとも、このときにはその後10年近くも自分がパラサイトするとは思っていなかったが。
飲食店で働くのは、高校生にお蕎麦屋さんで働いた時以来だったので10年のブランクがあったが働くことが楽しかった。私は夕方以降しか働けない学生でもなく、昼間しか働けない主婦でもない、俗に言うフリーターという立場に専業主婦から変わった私は、飲食店にとっては使い易い存在だったらしく、曜日も時間も制限がなかったので重宝がられて、時給千円足らずだったが、バイト先の居心地が良すぎて、その後もついつい長居してしまっていた。
もしも私が歯科技工士という資格を活かせば、飲食店のお運びさんより遥かに高い給与を得られることは重々承知していたし、周りからも【もったいない】と言われていることもわかっていた。それでも飲食店を辞められなかったのは、大学へ入って以来、仕事といえば歯科技工士としての仕事しかしておらず、黙々と自分だけの世界で仕事をこなす技工士の仕事と、他人に気を遣ってナンボの接客業の仕事があまりにも正反対で新鮮だったからだ。
中小企業のオーナーという父の収入があることで、実家に住んでいる限りはお金に執着しなくても良かったのも続けている要因の一つだ。でも一番の理由は技工士の仕事に戻ることで、元旦那の実家を思い出すのがイヤだったのだと自分では分析している。
バイトが休みの日は、だいたい母とランチや買い物などに出掛けて過ごした。実家に帰って来てからわずか半年で母が亡くなることを知っている今は、母と過ごせたこの半年間が貴重だったことを実感できるが、当時は父の代わりにわがままな母をお守りさせられている気分だった。もしかしたら、母と過ごせる時間が少ないことを感じて離婚を決意できたのかもしれない。

母が他界した日。
私は夕方までバイトに入っていた。同じ時間にあがったバイト仲間の主婦達と着替えているときに話の成り行きから少し飲みに行こうという話になった。結婚していた間、私は友達や仲間と飲みに行くことは全くできなかった。もっとも、田舎には元旦那以外の知り合いはいなかったから、飲みに行く相手もいなかったし、行く為の自由になるお金も持っていなかった。それが、実家へ帰ってからは毎日でも地元の友達や仕事仲間と飲みに行くことができるのは大きな差だ。お酒の席が大好きな私としては、これ以上のストレス解消は今のところ見付からない。
バイト先から歩いて5分足らずの雑居ビルの地下にある居酒屋に行くことになった。この居酒屋はバイト先の仲間と何度も訪れている。ごく普通の居酒屋だが、19時までは飲み物が全品半額なので、夕方から飲めるときにはよく利用していた。食べ物も値段の割にはしっかりしている。ただ地下にある為、携帯の電波がやや入りにくく、圏外になっているときがある。だからこの店で飲んだ後、外に出た途端に何件ものメールが入ってくることがあった。
店に入って2時間ほどした頃、主婦達の【旦那がそろそろ帰ってくるから】という発言で、飲み会はお開きの雰囲気になった。いつも率先して会計係をつとめる私は、こちらへ向かってきた店員に会計を頼もうとしたとき、店の従業員が私達の誰にというわけでなく、
「この中で江角さんはいらっしゃいますか?」と大きな声で叫んでいた。
「はい、私です!」
私は小学生が教室で先生に当てられたいが為に手を挙げるようにして、上機嫌な声で答えた。私の声は子供の頃から異常に高く、頭の天辺から出るようなアニメ声優のような声だ。しかも舌が短いのでカツゼツが悪く、発音が聞き取りにくいようだ。ある人から言わせればすっとんきょう、ある人から言わせれば二日酔いの日には絶対にききたくないと言われる。自分ではそういう気は全くないのだが、私の地声を知らない人には【カワイコぶってる】と睨まれてしまう。おかげで同年代の女性には敵が多い気がする。私だって好きでこの声でいるわけではない。この声のおかげでどんなに真剣な場面でも、雰囲気はぶち壊しになる。男性といい感じになり、いざくどかれようとしても、この声でなえてしまうらしい。ある人に冗談交じりに【アニメおたくなら、綾香ちゃんの声を喜ぶと思うよ】と言われた。その話に私は憤慨したが、よくよく考えれば元旦那は少しアニメおたくの気があった。この声で【大人の女】を演じるのは、ジェームスボンドの吹き替えをボーイソプラノの男の子がやるようなものだ。ボーイソプラノのジェームスボンドじゃ絶世の美女が揃うボンドガールは、映画のように簡単に口説かれないだろう。唯一の利点は若く見られることぐらいだ。20代のときは、10代に間違えられてしまい利点ではなかったが、30代の中盤になった今は、この声のおかげで若く見られることに少し喜びを感じるようになった。
私の返事した声色に店員の男性はびっくりした顔をしていた。そのとき私は既にビールをジョッキで3杯と焼酎のロックを2杯飲んだ後だったので、かなりいい気分になっていた。アルコールが入ると余計に声が高くなってしまう傾向があるらしい。らしいというのは人づてに聞いたからで、自分では同じようにしゃべっているつもりだが、尋ねると皆が同じ答えなので実際そうなのだろう。
「江角さんにお電話が入っていますが。」
「電話ですか?」
(こんなところまで電話なんて誰だろう?ここにいるのが判るのは店長ぐらいだろうし。明日のシフトのことかな?)
私は疑問に思いながら、アルコールが回った身体でのたのたと席を立ち、レジの横にある店の受話器を受け取った。
「もしもし、江角ですけど。」
相手が店長だと思って酔いながらも、できるだけ低い声で言った。
「綾香、今すぐ総合病院へ来なさい!」
電話の声は切迫した父だった。私の声はこんなときには便利だ。すぐに相手に私だとわかる。
「えっ?」
私は簡単に事情を聞き、仲間に謝って先に居酒屋を飛び出した。雑居ビルから駅のロータリーへ全速力で走り、タクシー乗り場へ向かった。
タクシー乗り場は時間がまだ19時過ぎだったので、深夜と違って数人しか待っておらずすいていた。しかし乗せる側のタクシーも殆ど待っていなかったので、しばらく待たされることになりそうだった。
「すいません、順番を譲っていただけませんか?」
先頭に立っていた中年のサラリーマンに、息を切らしながら訊いた。次のタクシーがロータリーへ入って来るのを横目で確認すると、彼が答える前に私は続けた。
「母が危篤なんです、お願いします!」
私はサラリーマンの後ろに並んでいる人達にも聴こえるように、大きな声で言った。
先ほどのタクシーが乗り場に着き、ドアが開いた。
先頭に立っていた中年サラリーマンが、「私はかまわないが」と言い、後ろの人達に視線を送ると、皆頷いてくれた。
「ありがとうございます。」
私は深々と並んでいる人達に頭を下げ、タクシーに飛び乗った。
病院までの道は夕方の帰宅ラッシュで混雑していた。運転手に危篤で急いでいることを伝え、できるだけ空いている道を選んでもらい病院へ向かった。携帯で時間を確認しようとすると、父と弟から何件も着信があったことを表示していた。後で父に聞いた話では、携帯に何度電話しても私が出ないので、バイト先に私の行きそうな場所を聞き、居酒屋へ電話したそうだ。
(何で気付かなかったんだろう)
自分の過ちをタクシーの後部座席でうなだれて後悔した。
駅から病院までは、空いていれば15分ほどで着くが、渋滞や迂回したことで30分弱かかった。タクシーが病院の正門前に止まると、料金メーターを確認して多めのお金を運転手の手に押し込み、急いでタクシーから降りた。
受付で母の名を言うと、すぐに病室の番号を案内してくれた。この総合病院は家族ともども掛かりつけの病院だったので、その病室の場所はすぐわかった。エレベーターを待つ余裕はなかったので、母の部屋がある4階まで階段を駆け上った。
病室の前で既に来ていた2歳下の弟が私の到着をいらいらして待っていた。
「お姉ちゃん、早く!」
弟の私を急かす声色で、階段を駆け上がったことで早くなっていた鼓動が更に早くなった。
弟が病室のドアを開けると同時に病室に飛び込むと、母のベッドの横には丸椅子に座った父が母の手を握り締めていた。
母の周りにいた医師や看護婦は母の周りにあった機材を片付け始めようとしていた。
私は遅かった。母を看取ることができなかったのだ。
私は人からよく能天気と言われる通りに、滅多なことでは後悔しない性格だが、この日は人生最大の後悔だった。
母は夕方、料理を作っていた台所で突然倒れたらしい。死因は脳梗塞だった。
まだ48歳でこの世を去ることになるとは思いもよらなかった。
今朝は、一緒に朝食の仕度をして食卓を囲んだのに。母の味噌汁をもう飲むことができなくなるなんて、バイトに出掛けるときには思いもしなかった。
私は母の眠るベッドに顔をうずめて、そこに母がいる間ずっと泣いていた。

母の命日には、私は仕事を休んででも必ずお墓参りに行く。この日は毎年、家族全員が母の墓の前に並んで立つ。看取れなかったことの後悔の念は、毎年蘇るのだ。
(大事な人を失ってしまった。)

【3】
実家へ帰ってからは、母が他界したことを除けば本当に楽しんでいる。【楽し過ぎるのが良くない】とある人に言われた。楽し過ぎて不満がないからわざわざ変化を求めず、現状維持を望んでしまっているところが確かにある。
父のおかげでお金の心配もなく、飲食店の仕事も楽しい。そして何よりも気の合う友達や仲間と飲みに行ける。いずれも結婚しているときにはできなかったことばかりだ。
元旦那の歯科医院は提携先の技工士にずっと発注していたので、技工士である私の出番はなく、仕事を取り上げられた状態だった。家庭でする仕事は家事一般で、それも継母と一緒に彼女の機嫌を窺いながら、それをこなさなければならなかった。仕事を持たない私には自由になるお金は一円たりともなく、ショーツやナプキンを買うことでさえ財布を握っている義母にお伺いを立てなければ、手に入れることはできなかった。ましてや夜に友達や一人で飲みに行くなどという行為は、田舎町では許されないことだった。
元旦那の両親はビールをコップ1杯も飲めば、かなりいい気分になるらしく、アルコールには滅法弱かった。だから食卓でアルコールが出るのはお祝いなどの特別な日だけだった。私がアルコールを飲めるようになってから、人生で最もアルコールを飲まなかったのは結婚していた間になるだろう。私は呑んべだった父方の祖父の血が遺伝したらしく、周囲の人から言わせれば【ザル】のようにアルコールを身体に摂取する。特に歳を追うごとにその傾向は強くなっている気がする。私は決してアルコールに強い方ではないと自分では思っている。アルコールで【ほんわか】となる気分と楽しい雰囲気が好きなだけであって、そうなるまでに必要な量が他人よりやや多いだけのことだ。ついつい度が過ぎてしまい、家へ辿り着けずに公園や駅のベンチで朝を迎えたこともあった。
【一応嫁入り前?】の娘を心配して、父が定めた門限の1:30を越えそうな時、飲み会に夢中になって父に連絡をしておかないと、父は容赦なくマンションの扉に付いているチェーンロックを掛ける。父がアルコールを飲むのは、接待などで仕方なしに飲むだけだ。そんな父に飲み会がどれだけ楽しいことかを理解できるはずもなく、【酔っ払いの娘なんかいらん】と言って鍵をするのも無理はない。父は祖父が酔った勢いで祖母を殴ったりしているのを見て育ってきたので、尚更なのだろう。門限は35歳になった今も続いている。
思春期の頃は、世間一般並みに父のことが嫌いになった時期がある。父に触られることが気持ち悪いと感じたし、存在自体に嫌悪感を覚えていたときもあった。私の衣服を父の物と洗う母に真剣にたてついたこともあり、自分の分だけ自分で洗濯をしていた時期もあった。今はこの門限を除けば、最高の父だし、私は父のことが大好きだ。ファザコンの自覚もある。これも次へ進めない理由の1つだろう。私と同世代の男性と父を男として比べたら、どう考えても父の方が勝っている。財政面や寛大さ、決断力など男としての器で父に勝てる男性はいない。生きている年数が違うのだから、それを比べるのは酷だと思うが、同年代の男性に対して【ちっちゃいなこの男は】とつい思ってしまう。
母が他界するまでは、私も父も話し相手に不足することはなかった。母は家庭の中でいつも中心にいて、私達を和やかに過ごさせてくれていたのだ。母がいなくなったことで家の中に笑い声が少なくなったことを思い知らされた。
母が他界して2年後に弟が結婚して家を出ていくと、余計に家の中が静かに感じた。弟達には母が存命の頃から結婚の話は出ていたが、母の喪があけて、落ち着いてからにしようと義妹や義妹のご家族が理解を示してくれ、先延ばしになっていた。義妹は2歳年下の弟より1歳年上の姉さん女房だ。ちょうど私と弟の間になる。母に似て性格がおっとりしている弟を、少し焚きつけてくれる気の強い姉さん女房なので、なかなか似合いのカップルだと姉ながら思ってしまう。そして何より良いのが、義妹の家族であるご両親、姉夫婦ともに、みんないい人ということだ。家族同士の顔合わせが終わった後には、もう旧知の親戚同士のように和やかに話した。あの席に母がいたらどんなに喜んだだろう。
弟が出て行くと、四人家族がいつの間にか父と私の二人だけになってしまった。私が結婚して家を出たときには三人が残っていたので、私は家を出ることに抵抗感は全くなかった。もし今、私が結婚して家を出ることになったら、父は一人きりになってしまうことを弟達の結婚式の帰り、タクシーの中で父に話すと、
「お前の好きなようにすればいいんだからな。わしは一人でも全然かまわんぞ。」
と父は笑って答えた。アルコールに弱い父が珍しく多く飲んだ後の言葉なので、どこまで本気かは疑問だったが、多分シラフの時に訊いても同じ答えを彼はするだろう。
父は母と9歳も歳が違う。父母の結婚を例えると、昔ながらの九州男児の頑固おやじと世間知らずのお嬢様の結婚だった。父は母がいた頃は、当然のごとく家事はひとつたりともしたことがなかった。男子厨房に入らずというヤツである。厨房どころか洗濯も掃除もしない。今の世の中なら婿の行き手はみつからないだろう。我が家での父の仕事は明確だった。お金を稼いでくることだ。それ以外は全て母の仕事だった。
そんな父も母を失ってから色々なことを覚えたようで、何にでも凝り性な性格が働き、和食は私より美味しく作ったりするようになった。だから、元気なうちは家事については私が居なくなっても心配ないほどの腕前に育て上げたと私は自負している。
心配なのは、父の話し相手だ。会長職になってからは、殆どが家で仕事が済んでしまうので、仕事で外に出ることはあまりない。健康の為にスポーツクラブへ通ったり、買い物に出掛ける程度だ。どちらかと言えば職人肌の父は、気を許していない人とは殆ど話をしない。社交性は薄く、話すことに関しては超が付くほどの内弁慶だ。父の話を聴く役目はもっぱら母の仕事だったのだ。それが今は私に変わっている。私が家に帰ると、父は嬉しそうに今日あったことを私に一生懸命話す。仕事で疲れて帰って来た男性が、家に帰ると奥さんがその日にあったことをとめどなくしゃべることが苦痛だと、サラリーマンのアンケート調査で出ていたことを思い出した。毎日帰る度に私に向かって話す父をうっとうしいと思ってしまう日もある。母にはそれができたのだろうが、私はできそうもない。私が何日も飲み会が続き、父の相手をしないと彼はとても不機嫌になった。これが、私が家に縛られている理由だ。
30歳を超えると、地元の同級生達も殆ど片付いてしまい、飲みに行きたいと思っても誰もつかまらないことが多くなってきた。飲みに行く相手はもっぱら職場の仲間になってしまう。そうなると飲み会の席はどうしても仕事の愚痴話が大半を占める。お酒が美味しく飲めなくなってきた。仕方なく一人で時間を過ごせる映画館へ行き、映画を見ながら飲んだり、DVDを借りてきて家で飲むことが増えてきた。三十路で旦那も恋人もいない女の過ごし方など、相場が決まっているようで、夜の映画館には同じような過ごし方をする同年代の女性がちらほら見られる。
(こんなんでいいのかな?)
一人で過ごすことには何の抵抗もないのだが、ときには寂しいと思ってしまうときがあった。ちょうどこの頃にバイト先の近くにある技工所で、技工士のアルバイトを募集していることを知った。週2~3日でOKということだったので、飲食店のバイトと技工士のバイトを掛け持ちすることにした。やはりせっかく身に付けた技術を、元旦那を思い出すからという理由だけで放っておくのはあまりにも惜しい。学校へ通わせてくれた両親にも申し訳ないと思ってしまう。技工士の仕事をすることで、自分の時間は少なくなるが、自分一人の時間も少なくなると思った。30歳を超えると、時間があり過ぎるとかえって良くないことがわかった。だからこそ世の主婦は子供の用事や近所の会合など、独身の私から見ればどうでもいいような用事でスケジュールをいっぱいにすることで、主婦達は自分の居場所があることを確認し、安心するのだろう。
ある日、父は夕食のときに珍しくビールを飲んだので早々と寝てしまった。私は飲み足りず、かと言ってその日は一人で飲む気分ではなかった。何人かの友人に電話をしてみたが、20時ともなると、既に飲み会中だったり、明日早いからと迷惑そうに言われたり、彼氏と一緒だからと早々に電話を切られた。週はじめの月曜の夜だからなのか、私の少し話をしたいという欲求に答えてくれる友人がその日はいなかった。
(どうしようかな)
そう考えているうちにふと、前に母とランチへ行った近所のレストランバーを思い出した。母はそこのホウレンソウとベーコンのキッシュがとても気に入っていた。もし今母に何か好きな食べ物を食べさせることができるのなら、あのキッシュも候補の1つに入るほどチーズのブレンド具合とパイのサクサク感が絶妙で美味しい。そのレストランバーは実家から歩いて5分の距離にある店だった。住宅街の中にポツンとあり、誰もが(何故こんなところにこんなお店が?)と思ってしまう、シックでお洒落な創りの店だ。母と何度かランチを食べに行ったり、地元の友人と飲みに行ったこともあった。
(あそこなら、一人でも入れるかな?)
30歳を超えてからは、ラーメン屋も牛丼屋も平気で入れるようになっていたが、バーに一人で行ったことはそれまでなかった。周りのお客さんから【寂しい女】と思われることに抵抗を感じていたからだったが、よくよく考えればラーメン屋に一人で入って餃子にビールを頼むのも、バーで一人飲むのも代わり映えしない。客層が多少違う程度で、むしろ【大人の女】としては、バーの方がかっこよいかもしれないと思った。
(まぁ、万が一ってこともあるし)
バーにいる他の男性に誘われるかもしれないという杞憂を世間の女性並みにして、簡単に身支度をしてから、店に向かった。
その店はレストランバーなので、通常のバーのような閉鎖的な雰囲気はないものの、やはり一人で入ることに入口まで来てから躊躇した。外から店の中を覗きこむと、良いのか悪いのか店内はバーテンダーがカウンターでグラスを磨いている以外、人は見当たらなかった。
(どうしよう、でもせっかく来たんだし)
自分を奮い立たせて、扉を開けた。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの向こう側にいたバーテンダーが声を掛けた。
「一人なんですけど、いいですか?」
できるだけ大人の女を演じようと、低い声で言ったつもりだったが、緊張して声が裏返ってしまいかえって普段より高くなってしまった。
「ええ、どうぞ。」
バーテンダーは拭いていたグラスをカウンターに置いて答えた。
(どこに座ればいいんだろう)
鉤型に8席あるカウンター席のどことは、彼は指し示さなかった。こうゆうお店は、常連客の席が暗黙で決まっているので、初めて来た客は座り場所に悩んでしまう。そんな私を察して彼は左から3番目の席におしぼりを置いた。私は安心して、おしぼりの置かれた席に座った。
「生ビールを。」
おしぼりの後に置かれた黒い皮のメニュー表を見る前に私は注文した。
「生でしたら、アサヒのスーパードライと黒生、ハーフアンドハーフがありますけど。」
バーテンダーは静かな声で尋ねてきた。
「じゃあ、スーパードライを。」
私も彼に合わせて静かな声で言った。彼は頷くと、よく冷えた丈の高いビアグラスに、磨かれて金色に光っているブラス製のビールサーバーでゆっくりとビールを注いだ。私はその手付きを見て、感心していた。
私が仕事でビールを注ぐとき、泡が全然なかったり、泡ばっかりになったり、なかなかビールと泡のバランスがとれない。きめ細かい泡がきれいに乗ったビールが黒い板張りのカウンターに置かれ、カウンターの上にあるビールサーバーと同じようなブラス製のペンダントライトに照らされていて美しかった。ビールの姿を見て、私は思わず唾を飲んでしまった。
「いただきます。」
注がれたビールに本気でそう思ったのは生まれて初めてだった。一気に半分まで飲み、カウンターに置くと、カウンターの向こう側で彼は微笑んでいた。
「美味しいです。」
私は自分がついだビールとの違いに驚き、率直な感想をマスターに言った。
「ありがとうございます。」
「注ぎ方でこんなに違うものなんですね。あたしもお店で同じスーパードライを注いでるんですけど、うまくいかなくて。」
「注ぎ方もそうですけど、サーバーのメンテナンス具合や気温や湿度に合わせてガスの量を調節するとかもありますからね。」
「へぇ~、そうなんですか。」
私はその話を聴いて、残りの全てを一気に飲み干した。
「今度はハーフでください。」
「かしこまりました。」
新しいグラスにブラックベルベットのようなビールが注がれ、空になったグラスの代わりに置かれた。
「でも、私に飲まれるビールは幸せものですよ。」
私の言った言葉に、無言で彼は首を傾げた。私はグラスを傾けハーフアンドハーフをひと口飲んでから、
「だって、こんなに美味しくビールを飲む人はそうそういませんからね。」
私がそう言うと、バーテンダーは大笑いして自分用にビールを注ぎ、二人で乾杯した。
商売だからなのか、バーテンダーは聞き上手だったので、私はとめどなく色々な話をバーテンダーと楽しんだ。私の少し話したいという欲求は充分に満たされた。
バーテンダーはその店のオーナーだった。若いときにお金を貯めてこの店を作ったと言っていた。歳を訊くと2つ上ということだったので、世代も近いこともあって共通の話題がたくさんあって話が途切れることがなかった。その日は21時前に店に入ったはずだが、気が付くと次の日に変わっていた。お会計は、職場で行く飲み会の会費と変わらなかった。わずか3千円程度でこれだけ楽しい時間を過ごせることを私は30歳を超えてからうっかり覚えてしまった。
その日から週1日はそのバーを訪れるのが私の生活パターンに組み込まれた。家で父に【飲みに行ってくるね】と言うと、「また、あそこか。」と父は呆れた声で答える。
私は「いいでしょ。歩いて行ける距離なんだし。」と父に反論して家を出て、バーへの道のりを歩く。この店は半地下のような造りになっているので、あのときのように携帯電話が通じないこともないし、何より酔っ払っても這ってでも帰れる距離というのが嬉しい。
バーのマスターとおしゃべりすることが、私の生活の一部になり、私の楽しみの一つになった。
(少しだけ大人の楽しみがわかってきたかも…。)


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