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「狭い門」に関する、間違いだらけの一般解説を斬る

マタイ7:13,14の「狭い門」に関する理解に多くの間違い、勘違いがあるようなのでここに簡単に纏めてみました。

端的に言うと着地点と門と道の位置関係ですが、ほとんどの解説から、門を入った後、長い道のりがあるというイメージを抱いているようです。
門と道はそれぞれ2種類あります。
《…滅びに至る門は大きく、その道は広い…いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はま れ…》(新改訳)

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このイラストでは手前左に広い門、右に狭い門があり、そこから長い道の末にそれぞれの結末が描かれています。

果たして聖書はそのように示しているでしょうか?
多数組が「そこから入る」わけですから「そこ」は道ではなく「門」です。
同様に、極めて少数の者だけが「それを見い出す」わけですから、「それ」も道ではなく「門」でしょう。
ここで、「狭い」という比喩表現の意図が明らかにされています。
見つけ出すことが難しいゆえに「狭い」と表現されています。
殆どの人はその命への門がどこにあるか見つけられないということです。
道中の試練困難など、どこにも示唆されていません。
ということは「広い」とは、別段、探し出そうとする努力など不要という状況があるということです。

今日、キリスト教とされる教団、宗派は数え切れないほどたくさんあります。しかし、イエスがここで示しておられるのは2種類のグループだけです。「入ろう」と努力しているクリスチャンの殆どは広い門を入る人としてひとまとめにされています。

《狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。》(ルカ 13:24)ー新共同訳

この言葉は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問に対してイエスが応えられたものです。

さて、ここで、アレ?と思われた方は、着眼点がスゴイです。
気づかれましたか? ここでは「門」ではなく「戸口」になっています。
この違いを強調するために、冒頭の引用は新改訳から、そしてルカの方は新共同訳からにしました。

元のギリシャ語では、マタイ7章で「門」と訳されている語は「ギ語:プレ」ですが、ルカの記述で使われている語は「ギ語:スル」で「ドア」という意味です。
フランシスコ会訳、新改訳などはマタイの記述を踏襲するためか「ギ語:スル」を「門」と訳していますが、
岩波翻訳委員会訳、新共同訳、前田訳、塚本訳、口語訳などは原語に忠実に「戸口」と訳しています。

「たとえ」というのは趣旨をはっきりさせるための「聞く挿絵」のようなもので、詳細な点は大雑把ものですから、読者としては、門扉付きの門構えのようなものをイメージすればよいでしょう。

イエスのたとえ話の中でのイメージですが、この門(ドア)は広狭の違いはあれ、閉ざされている訳ではなく、関所のように資格が問われるわけでもなく、常に開かれていて誰でも自由に通れることになっています。
さて「門」の手前には道があるでしょう。そして、門が見え、何事もなく自由にスルーすると、その後延々と続く道があるとすると、その門は一体何のために存在するのでしょうか。

さて、先程のルカの聖句の続きを見て冒頭に述べた、門、道、着地点の位置関係を考察してみましょう。

《家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、 『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返っ てくるだけである。
そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で お教えを受けたのです』と言いだすだろう。
しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』 と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、 自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。》
ルカ 13:22-29)

「門」あるいは「戸口」を入ってから延々と道が続くどころか、戸口の前でご主人と会話しています。
マタイとルカのたとえ話は、厳密には別の物語ですが、趣旨や目的は同一です。
この2つをオーバーラップさせて一つの絵柄を描いて見ましょう。
先のイラストに2種類の着地点が示されていましたが、究極的には「滅びor命」に至るわけですが、実際のところ道の着地点は同じ場所です。
つまりどちらも「主と対面する」ということです。それから選別がなされます。
天の国へ招かれるグループと門前払いとなる人々です。
このパターンはマタイ25章の賢い女たちと愚かな女たちの例えにも見られます。

ルカの方では、クリスチャンを自称する圧倒的多数派の「入れない者」に視点が置かれ、「入る」ことができたグループに関する記述はありません。
マタイの例えから見れば門は2種類ありますから、ルカの方の「主人の家の前の戸口」も狭い戸口と広い戸口があると考えてもいいかも知れません。
狭い戸口(門)から入ったグループは主人に迎え入れられます。

狭い戸口選択組は、この2種類の戸口を承知していますが、広い戸口選択組は、狭い戸口を見つけ損なっているので、広い戸口しか知りません。
ですから、戸口に到着したのに入れないのは心外だと苦情を言います。

しかし、たとえ話上では、ルカの方は、主人の家に入れないのは門(戸口)のオープンにはタイムリミットがあり、それを過ぎたら閉じられてしまうため中に入れなかったということになっています。
このタイムリミットは、終末の審判の時まで、その気になれば狭い戸口を見出す機会はずっと開かれていたということを示すためでしょう。

広い道選択組は、その結末にわけも分からず滅ぼされてしまうなどというものではなく、イエスに文字通り門前払いされる理由を納得させられて、決別を宣告されるということです。
ここはマタイの狭い門の記述の少し後の次の聖句とリンクしています。

《わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名に よって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』》ーマタイ7:21-23

「主よ、主よ」と呼ぶ「大勢の者」とはクリスチャンを自認する人々です。
「あなた方を知らない」と宣告されてしまうことのないよう、まだ門(機会)が開かれているうちに、自分は本当に見つけ出すことが難しいとされる「狭い門」を入れる「まれ」な人なのかを吟味することは重要でしょう。

ところで、「滅びに至る」とは実際にどういうことでしょうか。
この「滅び」に関しても、大きな勘違いが見られます。
次の記事をお読み下さい。


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