見出し画像

【昔むかしのワスレモノ】

 放課後のホームルームが終わると、保健室へ駆ける少女。ブラウスの襟元を飾る大きな赤いリボンと、アプリコットピンクのニットカーディガンは、少女のトレードマーク。無垢で心を解す永遠の春色。肩口で切りそろえた髪に細い編み込みを入れ始めたのは、メイクに代わる細やかなお洒落。

「先生!御子柴君は起きてますか?うん、いつものお迎えです!」

 分厚いカーテンの向こう。寝息を立てている少年はもぞりと動いて真っ白な掛布団の中へと潜った。まだ眠っていたいのだろうか。
 少女はそんな少年の事情を汲んで……忍び込むようにそっと入った。

「御子柴君、ほら帰るよー?放課後ですよー?」

 揺さぶると、少年は気怠げに呻く。

「まだ……ここにいたい」
「もー子供みたいなこと言って。怖い夢でも見た?」
「うん」 
「そ、っか、うん、文化祭実行委員大変だもんね?」

 窓の外が、廊下が、退屈な授業から開放されて次第に賑わっていく。近くて遠いその声たちの中で、近くにあったパイプ椅子に腰掛けながら少女は悪戯っぽく笑った。少年が掛布団の中から出ようとしないから。

「もー、しょうがないなぁ」

 ベッド端からだらりと下がった色白の細い手を、少女は緩く握ってベッドに戻そうとする。眠りと夢と現を行き来する少年はまだ目蓋が重く、力の入らない腕は見た目よりもずっと重い。
 その重みに少女は労るような笑みを浮かべて、少年の手を両手で握り直し、自分の心臓の場所へ持ち上げて、そのまま大事に心臓へ押し当てた。
 柔らかな感触に、少年がゆっくりと目を見開いた。
 
「若林さん……?」
「最近流行りの漫画の受け売りなんだけどね、心臓が一番あったかくて、元気を分けられるんだって」

 軽く覗き込むような仕草の先で、視線はぴったりと合わさる。ブラウスの襟を飾る大きなリボンの先端が、窓の外に咲く金木犀の枝と揃いに小さく揺れた。
 少年にとってその光景は、穏やかだったのだろうか。
 悪夢の淵から這い上がるようにして、少年はようやく焦点を少女の顔に合わせた。それを見た少女はとても満足気で、にこっと笑んで話を続ける。

「手を繋ぐと安心するのとおんなじなんだって。よかった、いつもより早く起きてくれそうだね」
「別に……何時に帰る決まりなんてないし」
「早く帰っちゃうほうが自由時間が長くなるよ?はい、おはよー!」
「……おはよ」
「えへへ。帰ろう?」

 少女は知っている。少年の手がいつも冷たいこと。家に帰る間際が一番起きたくないとぐずること。だから願う。支えたい。家に無事帰れる楽しい放課後にしてあげたい。授業は休みがちなのに期末テストは絶対に落とさない努力家気質も、クラスで誰かしらと話している最中もどこか遠くを見ているような眼差しも、ほうっておけないから。
 少女は幸せそうに、少年の悪夢救済に身を捧げ続けた。少年の手が震えても、悪夢に負けないで帰ってきてと、少女は励ましながらぎゅっと健気に押し当てる。何日も、何日も。元気の御呪いは本当に少年に起き上がる勇気を分け与えるから。
 その証拠にほら、文化祭実行委員としての彼の活躍は職員室で話題になるくらい、放課後の彼は元気になった。
 でも、文化祭があと少しで無事成功に終わる少し寒い放課後のこと。換気で開けた窓が金木犀の甘い香りを引き込んだ日のこと。
 
「ねえ……」
「なあに?」
「自分が、………をして…、分かってるの?」
「え、なに?聞こえないよ」

 少年が枕に埋もれながら低く呟いた言葉を聞き取りたくて、少女はベッドへ身を乗り出した。いつもどおり、心臓から元気を分けながら。
 少年は眠そうで、気怠そう。なのにその日だけは、瞳の奥の眼光がマチ針のように鋭かった。
 少女は、ハッと息を呑んだ。寝起きで不機嫌、という顔ではなかったから。その場に縫い止められたように、体がピクリとも動けなくなった。
 その間に、少年の冷たい手は少女の両手からするりと逃げ抜ける。そして何ら迷いなく、襟元のリボンをしゅるりと引きほどいた。
 その衣擦れは、甘くて危うい音。その手が更に滑る先は、アプリコットピンクの柔らかい心臓。

「ぁ……」

 少女の頬が一気に紅く染まって、弾かれたようにリボンと鞄を引っ掴んで、脱兎のように保健室を駆け出ていった。
 残された少し寒い空気は、温もりの残滓にこう刻む。

『触ったくせに』/『触らせたくせに』

******

 ずるいよずるいよ。
 自分は都合良く触って、
 後になって触られる側に変わって、
 ずるいよずるいよ。

 私は、あなたの指がほんの少し強張るだけでも
 ドキドキするのを堪えてたのに。

 仲直りしたのは、やり直したかったからなのに。
 あの場面を私は間違えたから。
 逃げちゃいけなかったのに間違えたから。

 『大学離れてもずっと一緒だよ☆』
 『結婚しても、ずっと変わらないよ?』

 私のいないところで、元気にならないでよ……。

 ずるいよ……。置いてかないでよ……。

 私は、時間を止めてずっとここにいるんだよ?

******

「――――っ!!」
「どうしたっ」
「離れて……。人を、殴りそう……」
「それで殴り倒したのは酔っ払ったセクハラジジイだけだろうが。ほら、もう大丈夫だ」

 夜闇を慟哭する荒い吐息。橙色の小さな月を灯すと、二人分の影が重なっていた。
 背の高い影は、少し背の低い影を、労るようにゆっくり撫でた。

「ここは……?」
「家だ。お前が選んだ、お前の家だ」
「保健室は……?」
「卒業した。今は強く凛々しい、立派な社会人だ」
「やめて、心臓の鼓動は嫌いやめて!!」
「そんな音は探さなくていい。悠、こっちを見ろ。ゆっくりでいい」
「どこ?隆幸どこ?僕は、僕は何も!!」
「ここだ。ずっと。今日は、何も起きていない。ずっと二人で、楽しくゲームをしていた」
「ゲー、ム?」
「アビスオンライン。ずっと一緒にやってきた、青春の詰まったロングセラー作品だ」
「アビス……ヴェルヴェット、倒した……」
「そうだ。昔は全然刃が立たなかったのに、やっと倒せたな」
「……ああ……よかった……」
「ああ。充実した休暇だ。……水、飲めそうか?」
「……コーラがいい」
「一口水を飲んだら、そうしようか。唇がこんなに乾いてる」

 炭酸が薬臭い砂糖の香りを引き連れて、ボトルから躍り出た。飲んだ後は歯磨きを、という行儀は夜中だと面倒くさくて、かつての少年は糸が切れたようにして枕へ沈んだ。

「ごめん……。縁切りしたら楽になれると、思ってたのに……」
「謝るな。謝るなら、俺もだ。何も気づいてやれなくて、ごめんな」
「……苦しかったばかりに、したくなかったんだ。付き合ってみたかったし、歪んだ禁欲を、直してあげたかった……見たくなかった……学校でまで……」
「……そうだな。お前から聞く若林の話はいつも、遠距離恋愛のカップルみたいだった」
「僕が、バカなんだ……。あの結婚式で、保健室と変わらない目で言われたことの意味を、僕は……タスケテと履き違えた」

 ■■結婚シテモ、ズット変ワラナイヨ?■■

「本当に履き違えているなら、彼女の想いが悪夢になったりしない。お前の心は、お前が決めていい。……もういいんだ」
「ーーーーっっ……、っ………ーーー!」

******

 ひどいよ。
 君は何もかも主語と語尾を濁して、
 後出しジャンケンで真実を創作する。

 ひどいよ。
 マンガの受け売りで科学的根拠なんてなくても
 あの手は温かかったのに。

 男の欲を嫌いながら男の欲に無防備なのは
 最終的に『こうなりかねないんだ』と
 クソ親父の真似までしたのに。

 ひどいよ。
 あのとき君はちゃんと分かって傷ついたのに、
 次の日には全部なかったことにしたまま
 ずっと同じ状況を創ろうとしている。

 僕は、ずっとここにいたのに。
 
 ひどいよ。
 母さんと同じことを、母さんを知らない君がして
 どんどん母さんに似ていくだなんて。
 
 ひどいよ、カミサマ。


これが白紙の値札。いつでも、もちろん0円でも構わないわ。ワタシの紡ぎに触れたあなたの価値観を知ることができたら、それで満足よ。大切なのは、戯れを愉しむこと。もしいただいたら、紡ぐ為の電気代と紙代と……そうね、珈琲代かしら。