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【戯れ~オフベージュの日常3~】

 カタンタタン、カタンタタン。
 地図では遠くないはずなのに、地上と地下道を行き来して乗り継ぐ月曜日の通勤ラッシュは、苦手。たくさんの人が自分の道にしか興味がなくて、郊外に住む友達が言う「都会の人は冷たい」の意味が何となく分かってしまうから。

 カタンタタン。カタンタタン。
 そんな月曜日も、週末の過ごし方を工夫したら少しだけでも楽しくなるのかもしれない。返信と家事に追われて忙しかった週末のSNSログにそう思った。

『私もイメチェンをしてみたほうが良いのでしょうか……?』
『大歓迎っすww』
『服をハンガーにかけるとか、メイク品並べた写真だけでも~!』
『写真はちょっと、恥ずかしいです(⑉• •⑉;;)』

 読み返すたびに、カフェオレを飲んだときのようにぽかぽかとする。
 魔女のイラスト画面を大事に胸元へ抱き寄せると、いつもと違う足の感覚がくすぐったくて、つい速足になった。裾の行先を気にし続けながら歩くフレアロングスカートではなくて、前の会社で穿いていた膝丈のマーメイドスカート。歩きやすさを重視して少しだけ後ろにスリットが入っているから、昼間たくさんの人とカフェミーティングを重ねていた頃は重宝していた。ダークネイビーの色も、大人っぽくて色々なシーンに対応できるから。

 トクントクンと心臓の音が聞こえる気がするのは、本当にいつもより速く歩いているから。丈の短いものを穿くと、たくさんの人に見られている気がするから。昔はそれが少し怖くて、少しだけ怖い経験もしたから。友達みんなに服装や髪形を選んでもらわないと怖くなる服だったから。

 でも、今の会社は服装も完全に自由で風通しも良くて、自分で頑張った分だけ形になるから、人の視線は気にしなくていい。

 そう、それを一番最初に教えてくれて、先週も教えなおしてくれた人に見て欲しくて、選んだマーメイドスカート。嗚呼、先週まで感じていたツマラナイが嘘のよう。どうして嘘のようになったのかは、分からないけれど。

 きっと、たくさんのことを頑張った。頑張ったら、いつもより一本早い電車に乗れた小さな得。こっそり喜んでホームで待っていると、後ろから声がかかった。

「あれ、木崎?」
「え?……あっ、大貫さん……!」

 振り返って見上げたら、思い浮かべていた頼もしい人がそのまま立っているのだから、心臓の音が跳ねた。
 
「おはようございます……!」
「おう、おはよう。いつもこの時間なのか?」
「今日は、一本早くて。大貫さんは……?」
「俺はいつもこの時間」

 滑り込んでくる電車。アナウンスの電子音に促されて動く人々。ありふれた流れにそのまま流されて、私たちは満員電車の中へ乗り込んだ。

「どっかの振替だかの影響で余計混んでるな。木崎、大丈夫か?」
「はい。ラッシュは仕方ないですもの」

 ぎゅうぎゅうと押し込まれる人、人、人。狭さに少し息が苦しくて、自然と天井を漂う空気を求めて見上げたら、知っている人の顔。

 どうして、いつもより身体が強ばるのだろう。
 嗚呼、きっと、電車の中で話すときは自然と小声になるから。

「よく休めたか?」
「はい。大貫さんのアドバイスのおかげです」
「そっか。それなら良かった」
「久しぶりにイラストを描いて、夫にも褒めてもらえました」
「へえ、どんな画?」
「それは……、ふふ、内緒、です」
「なんだそりゃ」

 電車の走行音を忘れるくらい、楽しいお喋り。ほんの10分くらいだけれどーー

 ーーキィッ 停止信号デス

「きゃっ!」
「っと。木崎、大丈夫か?」
「は、はい……。びっくりしてしまって」
「あちこち車両間隔調整だからな」

 人の流れに逆らえず、大貫さんの身体に強く押し付けられてしまう。吊革をしっかり掴んで踏みとどまってくれた人の胸元は、夫よりも少し広くて、筋肉で硬くて……。

「大貫さんも、大丈夫ですか?ごめんなさい、私、重いですよね……?」
「いや、木崎の体重がどうのじゃないからな、これ」

 少し、いたたまれない。それは大貫さんも同じなのかな。目を、合わせてくれないから。

「あの……ごめんなさい、私、いつもと違うスカートで、それで上手く踏みとどまれなくて……」
「ああ、採用面接以来だよな」
「面接?」
「はは。三人並んだ圧迫面接の左端の奴の顔なんて覚えてないもんな、普通」
「ええっ……!覚えて、くれていたのですか?」
「それでさっき木崎だって気づいたからな」

 少し話しては目を逸らされてしまう。でも、それはきっと私も同じ。

「な、長いですね……。事故、でしょうか?」
「大丈夫だって。そろそろ動く頃だ」

 ーーガッコン 安全確認ガ完了シマシタ

「ほらな?」
「よかった……。ふふ、大貫さんがいてくれて良かったです」
「こういう停車って気まずいもんな」

 ゆっくりと圧から解放されていく。
 ゆっくりと身体が離されていく。
 ゆっくりと頭が状況を描画する。
 
 不可抗力で倒れ込んでしまった私。身体を張って受け止めてくれた大貫さん。初夏の湿気と弱冷房のせいでお互いの汗の香りがほんの少しだけ分かってしまう密着。小声で交わす会話。まるで……。

「あの……大貫さん」
「ん?」
「御子柴さんも、同じ電車なのですか?」

 なぜか、ほつりと口からこぼれた問い。

「ああ。あいつ今日寝坊して一本遅れるってさ」

 なぜか、ほっとしてしまった答え。
 なぜか、今日この電車に乗れてよかった、と。
 ーー電車一本を得したのが嬉しいだけなの。

「木崎?」
「あっ、ごめんなさい……!ぼーっとして」
「ちょっとのぼせたのかもな。降りたらコンビニ寄って涼もうか」
「そうですね。ふふ、今日はお揃いの朝ですね」

 誰かとお揃いは、誰だって嬉しいもの。
 嬉しくて、一緒にコンビニでアイスコーヒーを買って、職場のフロアまで一緒に歩く心地は、月曜日の出勤なのに、どこかお散歩気分。
 だから、今日は少し意地悪な声が聞こえても、気にならない。

「(ひそひそ)ほら課長狙い。既婚のくせに」
「(ひそひそ)御子柴さん意識じゃないの?スカート」
「(ひそひそ)美脚でミコシィに勝てる人いないって」
 
 SNSのイラストをもう一度褒めてくれる話題のほうが、ずっと多いもの。業務に差し支えない程度の雑談をしながらパソコンと向き合う時間は、いつもりずっと充実していて、マーメイドスカートを褒めてくれる人の笑顔が、それを支えてくれるもの。

「木崎さん」
「ふわっ!」
「あ。すみません、驚かせました」
「み、御子柴さん、おはようございます」
「おはようございます。これ、後で」
「え?……は、はい」

 後ろからかかった事務的で冷たい声。笑わない顔。でも、「蘭さん」でもある御子柴さんだから、本当は優しい人。そんな人に手渡された白い封筒の中身はきっと、内緒の優しいお手紙……ではなかった。

 スナップボタンと裁縫キット……?このサイズは、よくブラウスのボタンの間につける隠しボタンで使うもの……。

「ーー!」

 自分の胸元に視線を落として、覗く恥ずかしい線に血の気が引く。新しいブラウスだから、つけるのを忘れてしまっていた。

 大貫さんのデスクのほうを見る。御子柴さんと何か打ち合わせている横顔は、まっすぐに御子柴さんを見ている。もしかして、電車の中で目を合わせてくれなかったの、って……。

 どうしよう、きつく閉じた膝から下が、すうすうと寒い。あのとき歪んだボタンダウンの隙間から、内緒を見られてしまっていたと思ったら……普通は、嫌とか申し訳ないとか、最初に出てくるはずなのに。

 なのに……。

「広報組ー。アトリエから差し込み入ったから御子柴借りるぞー」
「急ですみません。緊急はPHSのほうにお願いします」
「「はーい、いってらっしゃーい」」
「品管組は残業したくなかったら今のうちに巻けるだけ巻いておくんだぞ」
「木崎さん、先週の告知デザインはあれで通しますから、品管のフォロー、お願いします」

 賑わう声が、急に遠い。

「木崎さん、大丈夫?無理そうなら自分が巻き取ります」
「えっ?……ふわ、だ、大丈夫ですよ御子柴さん!アトリエから来るお仕事は御子柴さんにしかできないものが多いですもの。頑張りますね」
「お願いします」
「大貫さん、御子柴さん。気を付けていってらっしゃい」

 いつのまにか、フレアロングスカートを穿いているときと同じ自分に戻ってしまっていた。

 穏やかに笑って、頼もしい大貫課長と優秀な御子柴さんのコンビを皆で見送って、「一等地のランチ会議いいなぁ」「でも食堂の唐揚げが好き」と呑気なことを言いあいながら皆で和気あいあいとお仕事をする。難しい苦労を二人だけで背負ってくれていることを労って、サプライズお菓子を用意しておこう、と、先月の私は言って、皆と仲良くなれた。

 そんな日常に、銀色の隠しボタン一つで引き戻されてしまった気がした。


【次頁】日常4

これが白紙の値札。いつでも、もちろん0円でも構わないわ。ワタシの紡ぎに触れたあなたの価値観を知ることができたら、それで満足よ。大切なのは、戯れを愉しむこと。もしいただいたら、紡ぐ為の電気代と紙代と……そうね、珈琲代かしら。